2011年6月25日土曜日


6月24日 パート2 @ハンガリー、ブダペスト
 約束の時間に1時間遅れたことを謝ると、「電車が遅れるのは、東欧の伝統だから仕方ないよ」と、ブダペストのストリート・マガジン『フラスター』のスタッフ、チャバと販売者のゾルタンが迎えてくれた。
 早速ゾルタンに話を聞く。96年からハンガリー第3の都市ミシュコルツでストリート・マガジン販売の仕事を始めた彼は、「アルコールによってすべてを失いました」と語る。仕事、家族、家・・・すべてが彼のもとから去って行った。
 雑誌販売によって現在はアパートの一室を借りているゾルタンは、実は2年前に2人の娘との再会も果たした。「共通の知り合いが、『ゾルタンはもうアルコール依存症ではなく、新しい仕事も見つけたようだよ』って娘たちに知らせてくれてね。とてもうれしかったよ」。一度はすべて失った。でもまた、時間をかけて、1つずつ築きなおす。2人の娘のことを語るとき、ゾルタンは初めて笑顔を見せてくれた。
6月24日 パート1 @ブラティスラバ、スロバキア→ハンガリー、ブダペスト
 今日は移動日!と勢い込んでホテルを出たものの、駅についてみると電車が1時間の遅れとのこと・・・脱力・・・。
 仕方がないので、駅の階段に腰掛け、旅のおともにもってきていたロバート・キャパの『ちょっとピンボケ』(文春文庫)を紐解く。しょっぱなから彼独特のユーモアに引きこまれて、前景にあった駅のざわめきがすーっと後ろに引いていった。
「報道写真家でありながら同時に、優しい心を失わないでいることの難しさについて自問自答」するくだりを読む頃には、電車は無事ブダペストに向けて出発していた。
 それにしても、キャパの悩む姿が美しいなぁー、と思う。「写真屋! どんな気で写真がとれるんだ!」と言われて、「自分を嫌悪し、この職業を憎」む。そうやって揺れる心に、真摯に人生に向き合っている感じがよく出ていて、なんだかとても励まされる思いがした。
 そういえば、と、旅のはじめにソウルで、友人のSが語った「確固たる何かを築いて何事にも動じない人よりも、傷つきやすくてもろい人に、どうしても引かれてしまうんだよね」という言葉を思いだしながら、車窓の緑を目で追った。


6月22日 パート2 @ブラティスラバ、スロバキア
 夜7時。『ノタベネ』誌のズザと2人、ある舞台を見に出かけた。その名も「クカパカ(KUKA PACA)」。
 暗がりの中に人影が現れたかと思うと、一言こう叫ぶ。「人生はゲームだ」。またある人影はこう叫ぶ。「人生は痛みを伴う」。そして続々7人がそれぞれの人生の箴言を吐いた後、ライトは客席を照らし、こう問いかける。「それで、君はどこにいるんだい?」
 その後繰り広げられるのは、1組の夫婦の会話劇や、孤独を抱えて犬にしか自分の思いを話せない中年女性の繰り言、心の痛みを吐露する若者のラップ・・・それぞれの生き様がモザイクのように映し出される。
今年5月に5周年を祝ったばかりの「クカパカ」。その俳優陣は、皆ホームレス状態の人々で、そのほとんどが『ノタベネ』誌の販売者さんたち。今回が3回目の参加だというエルカが演じたのは、犬にしか自分の心の思いを話せない女性。「あれは、私の本当の姿なの。いまだに人に対して自分の考えを話すのが怖いのよ」と語る。「でもね」と傍らのズザが続ける。「エルカの書いた脚本が次回作に使われることが決まっているのよ」。すばらしい!
アーティストとしてこの俳優陣たちとかかわるパトリックはこう語る。「彼らの表現方法はとてもダイレクトでシンプル。どうやって人生を生き抜いていくかを知り尽くしているように感じます。台詞は全部オリジナルで彼ら自身が考えているのですが、その表現のプロセスにかかわれるなんて、これほどうれしいことはありません」。自身のアーティスト活動にも、大きな影響を受けているという。
30分強の劇の後には、俳優陣たちと観客とで話の輪が幾重にもできていた。

2011年6月24日金曜日


6月22日 パート1 @ブラティスラバ、スロバキア
『ノタベネ』誌の販売者さん、ヴラダに話を聞く。孤児院で育ち、「いつも両親の愛に飢えていた」と語る彼。その後、住み込みで働いていた工場でも解雇され、路上での生活を余儀なくされた。寝ているときに襲撃されたこともある彼にとって、路上での生活で心休まることはなかった。
 10年前に『ノタベネ』に出会ったことが人生で一番うれしかったこと、と語るヴラダ。「この仕事で大変だったことは?」と聞いても、「『ノタベネ』で大変だったことは一度もないよ。それ以前の人生がもっともっと過酷だったからね」と語る。
 現在は知り合いのガーデン・コテージに住まわせてもらっている彼にとって、『ノタベネ』で築いた人間関係は宝物のようだ。売り場付近の銀行のガードマンとも仲良くなり、雑誌販売中にからまれそうになったら、助けてくれるという。
 話を聞いている最中も傍らにいるソーシャル・ワーカーのスタッフと目配せして笑いあったりして、すっかりリラックスしている。彼にとっては『ノタベネ』が心落ち着くホームなのだろう。
 そんな彼に、「夢はなんですか?」と聞いてみた。「僕には夢はない。ただただ毎日を一生懸命に、一歩一歩生きていくだけさ」

6月21日 @ブラティスラバ、スロバキア
 スロバキアの『ノタベネ』誌は、2001年創刊。当時、INSP(ストリートペーパーの国際ネットワーク)が中・東欧でストリート・マガジンを創刊できるような団体を探しており、ブラティスラバで白羽の矢が立ったのが、当時ソーシャルワークを学ぶ学生だったサンドラたち3人だった。
 あれから10年。「もう10年たったとはねぇー。この仕事はあまりにも私の人生と密接にかかわりすぎているわ。いつも仕事に没頭しすぎて、自分の人生のこと考えるのをつい忘れてしまうんだけど」と笑う。「でも、人生で大切なことはすべてこの仕事から学んだ気がするわ」と語る。
 その例として、4年前この地にできたホームレス状態の人のためのシェルターのことをサンドラは語りだした。話は、6年前の冬にさかのぼる。当時、20人ものホームレス状態の人たちが路上で死んだことがこの国で大きな社会問題となっていた。というのも、その頃はシェルター入場前にアルコールテストがあり、これに引っかかった人は、シェルターで寝泊まりすることを拒否されたのだ。行き場をなくした彼らが、寒い冬の路上で凍死することもめずらしくなかった。
「当時、同僚のニーナとこの問題に取り組んでいて、酒気を帯びていたとしても、アルコールテストなしに、誰でもシェルターに泊まらせるべきだというキャンペーンを張っていたの。でも、冷たい反応を示す人もいて、私の意欲もくじかれそうになった時に、ニーナがこう言ったの。『21世紀に路上で人が死ぬっていうことを許していいと思っているの?』」
ニーナの信念は人を動かし、結果、酒気を帯びていても寝泊まりできるシェルターが新たに設けられた。「このことを通して、自分のやっていることを信じていくことの大切さを目の当たりにしたわね」とサンドラ。「これは今では、私の人生の指針でもあるのよ。『自分のやっていることを信じてあげなければならない』ってね」

6月20日  @ブラティスラバ、スロバキア
 3月11日。津波の一報を聞きつけたスロバキア『ノタベネ』誌のサンドラから、「大丈夫?」とメールが来たのは、地震発生から3時間ほどのことだったと思う。その後も、「『ノタベネ』誌の4月号の売り上げを『ビッグイシュー日本版』に寄付することに決めたから」とメールが来たりと、何かと行動で愛情を示してくれるこのスロバキアのストリート・マガジンに、直接「ありがとう」と言いたかった。
 事務所を訪れると、編集部員のダグマ、ファンドレイザーのズザ、ソーシャル・ワーカーのイヴァンや販売者さんたちが歓迎してくれた。
 まずは販売者さんたちのお礼をと思い話しかけると、「毎日ニュースを見て、日本の人たちがあの大変な状況の中笑顔を忘れずにいることに、励まされているよ。僕も見習って、売り場ではいつも笑顔を心掛けているんだ」と語る。「この状況は一生続くわけじゃない。状況は絶対少しずつ良くなっていくはずさ。僕の人生だってそうだったんだから」


6月20日  @ウィーン、オーストリア→ブラティスラバ、スロバキア


 オーストリアからスロバキアへは、内陸国の移動なので電車かバスでと思っていたが、ザルツブルクで出会ったモニカに「ドナウ川を通って、船で行けるわよ」と教えてもらった。1時間45分の乗船中、ずっとデッキで風に吹かれていた。無事スロバキアの首都、ブラティスラバに到着。
 今回宿泊する「ホテル・キエフ」は70年代の共産党時代に建てられたもので、なんともレトロな雰囲気。レセプションには、西ドイツのベンツの向こうを張って東ドイツで生産されていた「トラバント」が展示されていた。
 3日間、お世話になります!


6月19日  @ウィーン、オーストリア
 宿の裏が深い森になっている。同室の雅代さんと森の散策に出かけることに。芸術家の彼女は、こうして森を歩いて、作品のインスピレーションを得ることも多いという。
「こうやって自然の中にいると、本来の自分を取り戻すよね」と雅代さん。いやいやほんとに、“自然体”とはよく言ったもの。
 木に触れて、風に吹かれて、雲を眺めて、鳥の音を聴いて、土を踏みしめて。あー生きててよかったと思わせてくれる豊かな時間が、森には流れていた。

6月18日 @プラハ、チェコ→ウィーン、オーストリア
 バスで4時間の旅を経て、チェコからウィーンへやって来た。バスから降ろされたとたん、いつもの通りツアリスト・インフォメーションの事務所を探すものの、どこにも見当たらない。よって市内地図も手に入らず、「ここはどこ?」状態。
 思わず道行く人に「ここのユースホステルに行きたいんだけれど・・・」と駆け寄ると、「16区ね。ここから遠いわよ~」とのこと。丁寧に乗るべき地下鉄のラインを書いて渡してくれた。「グッドラック!」と声をかけられてから1時間。何とか無事丘の上のユースホステルにたどり着いた。
 ルームメイトは日本人の雅代さん。なんとこれから5ユーロ(約600円)の立見席でウィーン・フィルの定期公演を見に行くという。「もしかしたら、まだ当日券あるかもよ」ということで、ダメもとで一緒に市内へと降りていく。
 ウィーン・フィルの事務所へ行くと、なんとまだ立ち見の券が残っているとのこと。
指揮者はインド人のズービン・メータ、ピアニストはダニエル・バレンボイム。演目は、まずはストランヴィンスキーの「3楽章の交響曲」、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番ハ短調 op.37」。ダニエル・バレンボイムのピアノソロが終わると、ブラボーの嵐。山手線並みに込み合う立見席にも熱気が渦巻いた。
幕間、隣人とおしゃべり。香港から来たというパーカッション奏者の彼は、「次のR.シュトラウス『ドン・キホーテ op.35』はパーカッションが華やかだから楽しみだよ」とのこと。また独奏チェロがドン・キホーテを、独奏ヴィオラがサンチョ・パンサの役を演じているのだという。
弦楽器でのビツィカートでは、立見席に静かな笑いが起こったのだけれど、後で調べてみると、ドンキホーテとサンチョ・パンサが水車に巻き込まれて転覆し、ずぶぬれになってしまった際の、滴る水を表現しているのだという。なるほど!


6月17日 パート2 @プラハ、チェコ
チェコのストリート・マガジン『Novy Prostor』の編集長トマス宅で、夕ご飯をごちそうになる。面々はトマスの彼女、先日一緒にデモ行進したオンドレイ、『Novy Prostor』のためにマサチューセッツでノーム・チョムスキーへのインタビューを敢行したライター夫妻、そしてこちらのオーケストラに所属しているナツコさんと旦那さん。
座るスペースもないくらいの大所帯になったが、肩寄せ合ってパスタを頬張る。話題はやっぱり先日のデモ。「史上初めてメトロが止まったね。政府も予想してなかったんじゃないかな」とオンドレイ。その後も、ひっきりなしに、この国の政治家や政治の話が、食卓に上った。
 傍らで彼らの白熱議論を聞きながら、なんだかんだ言って、チェコの人たちとご飯を食べたり、飲んだりしていると、なぜか必ず政治の話になるなぁと感じていた。ビールのつまみは「揚げチーズ」と「政治」と言ってもいいくらい。そして、政府の動きに敏感で、「違う」と思ったら行動を起こす。
今朝、1968年のプラハの春、1989年のビロード革命の舞台となったヴァーツラフ広場へと足を運んだ。国民博物館、ヴァーツラフ像までのなだらかな上り坂を上りきると、ワルシャワ条約機構廃止20周年記念の展示がされていた。
 激動の20年を生きてきた彼ら。どれだけ体制が変わろうと、声を上げていくこの国の人々の姿勢は変わらない。

2011年6月20日月曜日


6月17日 パート1 @プラハ、チェコ
チェコのストリート・マガジン『Novy Prostor』の歴史は、ソーシャル・ワーカーのダーシャと友人ロバートが『ビッグイシュー』を英国で見かけ、「チェコでもこういう雑誌をつくりたい!」と一念発起したことに端を発する。3カ月をかけて、英国のビッグイシュー、オランダはアムステルダムの『Z!』、ユトレヒトの『ストラート・ニュース』、ハンガリーの『Flasztor』誌を回り、ノウハウを学んだ2人は、INSP(ストリート・ペーパーの国際ネットワーク)からも助成を受け、1999年12月13日に記念すべき第1号が発売された。
 プロのメディア関係者やソーシャル・ワーカーは100パーセント失敗するといったこの事業は、チェコのテレビニュースで紹介されたのをきっかけに急成長。現在、チェコ内の9都市で150人の販売者によって月2回、1万5千部ずつ販売されている。
ポーランドはポズナンの『ガゼタ・ウリツィナ』と同様、『Novy Prostor』の販売者さんたちも、89年のビロード革命以降の急速な社会の変化からふり落とされてしまった人々がその大半を占める。創刊当初は50代以上の販売者さんが多かったが、08年の経済危機以降20-30代の販売者も増えたという。
ラダは、03年からここナメスティ・リパブリキ駅で販売をしている。以前は、庭師養成の学校を出て庭師として働いていたのだが、需要が低くなる冬に解雇されてしまう。その後、量販店テスコの倉庫係として働いていたが、この仕事も長くは続かなかった。
喧嘩で相手にけがを負わせてしまい刑務所に20カ月入っていたことがある彼にとって、仕事に就くのはそれほど易しいことではない。でも今、この雑誌販売の仕事を通して、友人とともに住む家の家賃を稼ぐことができる。そして、もう少し生活のめどがついたら、「やっぱり元の庭師の仕事がしたいな。緑が大好きなんだよ」とラダ。「でも、一番の夢は海を見ることなんだ。チェコは内陸国だから、まだ僕は海を見たことがないんだよ」


6月16日 @プラハ、チェコ
 チェコの地下鉄が止まった。トラムもバスも止まった。
今日、この国の公共交通労組は、政府の健康保険・年金改革案に抗議して、ストを実施した。
昨日チェコのストリート・マガジン『Novy Prostor』編集長のトマスに会った際に、デモを行うメンバーの一人オンドレイを紹介してくれた。「明日朝9時に広場に来たら、デモに参加できるよ」とオンドレイ。24時間後の再会を誓って握手して別れた。
というわけで、朝が明けてから指定された広場に来てみると、早くもデモ隊の人波に飲み込まれてしまったのだが、アジア人は目立つようで、オンドレイが見つけ出してくれた。
深刻な財政赤字を抱えるこの国では、中道右派の市民民主党(ODS)を率いるペトル・ネツァス首相が、健康保険と年金の改革に取り組んでいる。でも、年金改革で民間の年金制度の導入と付加価値税の税率の引き上げを提案したため、労組側が反発しているのだ。
16歳からキャピタリズムやグローバリズムに反対してデモを始めたというオンドレイは、筋金入りのプロテスターだ。彼の持つ旗には、「政府はストを恐れるが、僕らは政府を恐れない」の文字が躍っている。私も旗をもたせてもらい、歴史的瞬間をちょっとだけ分ちあわせてもらった。

2011年6月19日日曜日


6月15日 パート3 @プラハ、チェコ
 宿が同室の祐子さんから、「人形劇を見に行きませんか?」と誘われた。聞けば、チェコの大学には「人形劇」学部があるくらいで、かなり本格的とのこと。
 さらに宿に置かれていたガイドブックを紐解けば、16世紀のハプスブルク家によるドイツ語公用化の動きの中で、子ども向けと思われていたため弾圧や検閲を受けなかった人形劇によって社会風刺をし、チェコの言葉や文化を守っていったという。
 俄然興味をひかれて、国立マリオネット劇場へ。1900年に創設されたこの人形劇専門の劇場には、開始10分前には早くも各国の大人たちが詰めかけていた。
 演目は、プラハで初演されたモーツァルトの『ドン・ジョバンニ』。しょっぱな、モーツァルトが登場し、はやくもユーモラスな雰囲気を漂わせる。
 人形たちの動きがすばらしい。哀愁や恥じらいといった心の揺れ動きまで、その身体の動きで感じさせる。6本ほどの糸によって、本当に息を吹き込まれたように、生き生きと舞台を駆け抜ける。
 2時間弱の舞台が終わると、まだ心はドン・ジョバンニにもっていかれていて、しばらく席で余韻にひたった。

6月15日 パート2 @プラハ、チェコ
 『Novy Prostor』の創設者ダーシャとのランチに、編集長のトマスが途中参加。日本文化にも興味がある彼が「以前、『メカニカル・ラブ』という映画を見たことがあるんだけど・・・」と切り出す。デンマークのフィエ・アンボ監督が、ロボットと人間とのふれあいを描いたこのドキュメンタリー映画は、07年の「アムステルダム・ドキュメンタリー映画祭」で優秀賞を受賞。映画では2体のロボットが紹介されており、そのうちの1体「パロ」は欧州の老人ホームや日本の高齢者と交流。もう1体は、大阪大学・石黒教授のアンドロイド「ジェミノイド」を取り上げている。
「その『メカニカル・ラブ』の中で「Sonzaikan」という言葉が出て来たんだ」とトマス。一瞬何かの「館」かな?といろんな漢字が頭に浮かんだけれど、幾度かの質問のうち、「Sonzaikan」は「存在感」であると判明。
 大学では哲学を学んだトマス。「ロボットにも存在感があると思う?」と聞いてきた。たぶん、彼らに存在感を認めたときに、人間とロボットとの交流が可能になるんだろう。さらにトマスが「ホームレス状態の人々は日本で『存在感』がある?」と質問を重ねる。そう聞かれて考えてみたのだけれど、実はこの「存在感」がいろいろな日本社会のひずみを解くカギなのかなぁ、と思ったのだ。
 私自身、日本で生きていくことにつらい気持ちを抱えてしまうことがよくあって、何だか片意地はって「存在感」を示していかないと社会へのメンバーシップをもらえないような、そんなプレッシャーをいつも感じていた。
存在感を示すために組織で頑張りすぎたり、いらないものまで買ってしまったりすることがあるのかもしれない。この実体のないモノに振り回されているかもしれないなぁーという気持ちをトマスに話した。
今まで見たことのない角度から日本の社会を見る機会を得た1日だった。


6月15日 パート1 @プラハ、チェコ
 チェコのストリート・マガジン『Novy Prostor(新しいスペースの意)』を訪れる。迎えてくれたのは、『Novy Prostor』の創設者であり、この5月に母になったばかりのダーシャ。すやすや寝息を立てていた娘のアメリエが起きたのを機に、「おむつを替え終わったら、ランチに行きましょ!」と言う。
 事務所から徒歩3分のチェコ料理の店で、まずは飲み物を注文。チェコ版コーラの「kofola」を選ぶ。ダーシャによると、89年のビロード革命以降、コーラやペプシなどがこの国に入ってきて、目新しさから当初はそちらに軍配が上がったが、民主化から20年余を経て、現在は「kofola」人気が復活しているという。一口、口に含むと、原料の顔が見えるような素朴な味。
 ダーシャはお父さんがスロバキア人、お母さんがチェコ人だという。1920年にチェコスロバキア共和国が成立したものの、93年には「ビロード離婚」したりと何度も境界線を引きなおした2国。「ビロード離婚は、政府に必要だったもので、一般人は求めてなかったんじゃないかしら。少なくとも私はそうね」とダーシャ。
彼女によると、最近「Česko Slovenská Superstar(チェコ&スロバキア版の『スター誕生』や『アメリカンアイドル』)」という番組が両国で人気だという。同じものを見て熱狂して、笑い合って。境界線がどこに引かれようと、人々はつながりあっている。


6月14日 @クラクフ、ポーランド→プラハ、チェコ
 ポーランドのクラクフから1度の乗り継ぎを経て、チェコのプラハへ到着。9時間の電車の旅を終えてプラハ中央駅に降り立つと、アールヌーボー建築の駅舎が出迎えてくれた。
 メトロを乗り継いで宿に到着すると、チリ人のダニエラから「夕飯でもどう?」と誘われた。夜のプラハの街へと繰り出す。
 旧市街広場では、仕掛け時計が8時の舞を踊っていた。そこから西へ、チェコの国民的作家、カレル・チャペックもその美しさをたたえたヴルタヴァ川、カレル橋に向かう。川越しに見えるプラハ城が妖艶な光を放つ。
 チリのターミナルケア病棟で医者をしているというダニエラ。カレル橋ではカメラを向けると陽気にポーズをとってくれた彼女だけれど、夕飯の席ではキャリアや恋愛や人生について、お互い人生相談。地球の裏側に住んでいても、アラサー女子の悩みはいつの世も同じ模様。クネドリーキ(蒸しパン)付の豚肉&ポテトをほおばりながら、プラハの夜は更けていった。

6月13日 @クラクフ、ポーランド
 赤いサンダルに、飾りがかわいいブーツ。紳士用の革靴に、子ども用のスニーカー・・・。そこにはおびただしい数の靴が展示されていた。同じように、こちらにはめがね、あちらにはスーツケースが山積みされている・・・。
 皆、アウシュビッツ収容所に送られてきた人たちの所持品だ。これだけの生活がある日突然奪われたことを想像すると、めまいがしてその場に崩れ落ちそうになる。
 ポーランドに来たら、アウシュビッツをぜひ見ておかなければと思っていた。でも、見終わった今、目に焼き付いた映像の数々がうまく消化できず、身体が拒絶して、結局1日寝込んでしまった。
 これだけの悲劇を人は生み出せる。しかも、生まれながらの極悪非道の悪人なんてのはいなくて、彼らは家に帰ると普通の父であり、夫であった。以前見た映画『敵こそ、わが友~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~』では、「リヨンの虐殺者」と呼ばれたクラウス・バルビーの娘が登場し、「父はとても優しくて、思いやりがあった」と語っている。
自分も同じ立場に置かれたら、そのような悲劇に手を染めていたかもしれないことを思うと、やりきれない。
 一方で、悲劇の中にも、周りの人の心に灯をともした人がいた。コルベ神父が身代わりになって囚われたという断食房を見たときに、少し心が救われた気がした。神父のように歴史に名を残さなくても、ささやかな優しさで周囲の人に明日を生きる勇気をもたらした人がたくさんいたはずだ。過酷な労働の日々の中で、そんなことが自分にできるだろうか? 果てのない自問自答が続いた。



6月12日 @ポズナン→クラクフ、ポーランド
 旅立ちの朝。ジャネッタ&ボイテックが出してくれた朝食は、ジャガイモ&チーズ入りのポーランド風餃子ピエロギ。台北の小龍包、サンクトペテルブルクで食べたグルジア料理ヒンカリ、そしてここポズナンでのピエロギ。包む文化は大陸をまたいで息づいていた。
「思い出に」と渡されたのは、ボイテックのおばあさんが手作りし、ジャネッタ&ボイテックがついさっきまで使っていたテーブル敷きとポーランドのドキュメンタリー作家Marcel LozinskiのDVD。すごく心に響く贈り物で、別れがすっかり名残惜しくなってしまう。
 クラクフ行の列車はどこか時代に取り残されたような、ごつごつした味のある車両。ごとごと揺られながら、ポーランドの素朴な人たちにもらった温かさを思い出していた。

2011年6月13日月曜日




6月11日 パート2 @ポズナン、ポーランド
 今回の旅の目的の1つが、ダグマラの結婚式に出席すること。ダグマラとは、4年前に行われたINSP(ストリート・ペーパーの国際ネットワーク)の総会での宿が同室だったことから仲良くなった。『ガゼタ・ウリツィナ』のアイドル的存在だった彼女が結婚するとあって、涙した男性スタッフも多かったと風の噂で聞いた。
 それはさておき、4時からの式に向けて、ジャネッタと大急ぎで家に戻り、ペンキだらけの服からドレスに着替える。ジャネッタのボーイフレンドのボイテックは、もうすっかり用意ができているのか余裕の表情だ。
 ばたばたと家を飛び出し、なんとかぎりぎりセーフで教会に潜り込む。旧市街地にあるそのカトリック教会での式は、おごそかそのもの。約1時間の式を終えて、会場を移して披露宴へ。1時間ほど料理を楽しんだ後、おもむろにダンス・ミュージックが流れ始めた。老若男女思い思いに踊る踊る。ひとしきり汗をかいた後は、また食べて飲む。飲むのはもっぱらウォッカ。「乾杯~♪」と宴は延々続き、8杯目のウォッカを乾杯する彼ら、あな、おそろしや・・・
 ふと時計を見ると、もうシンデレラなら帰らないといけない時間。ここでようやくウェディングケーキ登場、ケーキ入刀。そしてさらにウォッカをあおり、踊り狂う大人たち。気づけば奇声をあげながら踊る彼らの一員になっていた。
 宴は朝の4時まで続き、聞けば親族は翌日も結婚を祝うためにまた集うという。田舎では1週間結婚を祝い続けることも珍しくないという。
 なにはともあれ、皆に祝福され、ここにまた1組の夫婦が誕生したのでありました。


6月11日 パート1 @ポズナン、ポーランド
 5月にポズナンで開かれたストリート・アートプロジェクトの首謀者の一人がジャネッタだ。ポズナン市内の5つの壁に描かれた絵は、道行く人の感性に訴えかける。グラフィティのメッカ・ベルリンに勝るとも劣らぬ力作ぞろいだ。
 1つの壁の前で、「これを見てどう思う?」と聞かれたので、「IT化で人とたやすくつながれるけど、実はつながっていたり、つながったとしても切れるのも早かったり・・・かな?」と語ると、うれしそうにうなずくジャネッタ。「1人1人感想は違っていていいの。そうやって語り合ったり、考えたりすることにアートの意味があるんだから」
 今日は広告の依頼があり、壁を塗りに行くというので、連れて行ってもらう。
 足場をひょひょいと登っていく彼女。目にもとまらぬ早業で、6段目まで上り詰めておる。負けへんで~と意気込むものの、重いお尻が行く手を阻み、2段目までで登ったところで汗だくに・・・。おまけに下を眺めると目がくらみ、「ご、ごめん、急性高所恐怖症にかかったから、壁塗り手伝えへんわ・・・」となんとも情けない結果に。
 なのに、地上に降り立つと、なんだか一仕事終えたような充足感・・・何もしてないのにね・・・。



6月10日 パート3 @ポズナン、ポーランド
中世ポーランド王国の最初の首都だったポズナン。ヴァルタ川に臨み、古くから商業都市として栄えてきたが、現在は毎年6月上旬に行われる国際見本市の開催地でもあり、2012年には欧州選手権大会の会場の1つになるなど、今後も大いにその活躍が期待される街だ。
マグダの妹のダグナが、街を案内してくれるという。ポズナン・カロル・マルツィンスキ医学大学在学中の彼女は、ホリデーにはイタリアまでヒッチハイクで行ったり、明日はハーフマラソンに参加する予定だったり、なかなかアクティブな女性だ。
第二次世界大戦ではドイツ軍とソ連軍の激しい戦闘により市街地全体の55%が破壊されたというポズナン。特に旧市街はその90%以上が破壊されたが、戦後、残された資料を元にポーランド人の手によって完全に復元された。その見事な街並みの中でイベントが行われており、子どもたちが民族衣装を着て出番待ちだったところを思わずパチリ。
中世の街並みが続いたかと思えば、通りを曲がれば酒製造工場跡を利用したモダンなモールが急に出現したりと、いくつもの時代の層が重なり合って、ポズナンはとても魅力的な街だった。



 6月10日 パート2 @ポズナン、ポーランド
ポーランド・ポズナンのストリート・マガジン『ガゼタ・ウリツィナ』の制作スタッフを束ねているのは、ドミニク・ゴルニ。詩人であり、ジャーナリストでもある。ポーランドで誉れある詩人へ贈られる賞も受賞した彼だが、一言で言えば「天然」。自分と近しいものを感じて、話していると何だか笑ってしまう。通訳をしてくれたジャネッタも、「彼はよく空を飛ぶ癖があるから、時々地上に降りてくるように足を引っ張ってあげなきゃだめなの」と笑う。
「ここで働く人は皆、いろんな社会的背景をもっている人たちですが、そんな多様な人たちが一つの目的のために働いているのがおもしろい」という彼。「雑誌へ寄稿したり、販売をすることで販売者さんがポジティブに変わっていくのを見るのがうれしい」と語ると、すかさずジャネッタが「ドミニクも変わったよ。空のことばっかりじゃなくて、最近、地上のことも考えられるようになったんじゃない!?」と茶々を入れる。
 そういえば、もう1人の雑誌制作スタッフ、マグダも、修士論文を書いている途中うつ病に陥ったのだが、ここでボランティアをするうちに、考え方も前向きになっていったと話していた。
 互いが互いに影響しあって、誰もが少しずつ生まれ変わる場所。私も皆と話している中で、とても前向きな力をもらった。
 最後にドミニクが力強く語った。「僕はよく年上の詩人たちと喧嘩をするんですが、詩も木や空のことばかりを詠うのではなく、もっと社会を語らないといけないのではないかと思うのです。詩にも、社会の声となる責任があるのではないか、と」熱き詩人は、前のめりになって一気にそう話した。


6月10日 パート1 @ポズナン、ポーランド
 バルカ財団の1プロジェクトであるストリート・マガジン『ガゼタ・ウリツィナ(ストリート・マガジンの意)』は、04年に創刊。現在3カ月に1回約5千部が、15人の販売者によって販売されている。
 販売者の1人ヤツェクは、雑誌販売の醍醐味は人と話せることだと語る。「時には孤独を抱えて僕らのところにやって来るお客さんもいる。僕はただ耳を傾けるんだ。彼らは雑誌を買って僕らの生活を支えてくれているんだから、僕も何かの役に立ちたいんだよ」。そう話す彼は、「バルカ財団」のパソコンワークショップでパートナーを見つけた。それが笑顔の素敵なレナタだ。休憩時間木陰で2人語らい合う姿は、本当に幸せそうだ。 
 レフ・ブルは、長年雑誌販売に携わり、今では販売者のリーダーを務める。電気技師の傍ら、ミュージシャンもしていた彼にとって酒は身近な存在で、人生の早い段階からアルコール依存症に苦しむことになった。12のセラピーに顔を出したが、セラピーを終了し元の生活に戻ると、問題もまた彼のもとに戻ってきた。
最後のセラピーの後、彼は元の暮らしには戻らず、このコミュニティにやって来た。そして、アルコールは少しずつ彼の身体から抜けていった。「飲んだくれてきたない格好の自分にはもう戻りたくない、その一心でこれまでやってきたよ。最期の日まで、しらふで生きていくのが僕の夢だね」


 6月9日 パート2 @ポズナン、ポーランド
 
 ベルリンから3時間の電車の旅を終えてポズナン駅に到着すると、現地のストリート・マガジン『Gazeta Uliczna(ガゼタ・ウリツィナ)』のスタッフ、マグダとジャネッタが迎えに来てくれていた。早速彼らの事務所へと向かう。
 ストリート・マガジン『ガゼタ・ウリツィナ』は、「バルカ財団」という非営利団体の1つのプロジェクトで、この財団自体の歴史は20年前にさかのぼる。
 1989年、共産国から民主化へ大きく舵を切ったこの国には、問題が山積みだった。その1つが、これまで官のものだった住宅が民営化されたこと。家主は家賃を吊り上げ、払えない人たちは追い出されるということが多発した。借主たちを保護する法律もなく、彼らは路上へ出るより方法がなかったという。
 同年、家を失った人たちと、バーバラ&トマシュ・スドウスキ夫妻が、廃墟となった小学校で共に暮らし始めたのが、バルカ財団の始まりだ。心理学者として精神病院に勤めていた夫妻にとって、病院に捕らわれの身となって薬漬けにされている患者たちの姿にも違和感がぬぐいきれなかった。そんな患者たちも、彼らのコミュニティに加わり、ともに野菜や家畜を育てながら暮らしていた。
 20年余の時を経て、彼らの働きはポーランド全土におよび、現在ではEUからも助成金を受ける大きな組織に成長している。英国、オランダ、ドイツなどにもオフィスを構え、移民として外国へ出たものの職がなくアルコール依存症者となり路上暮らしをしているポーランド人たちに国へ帰れるよう足がかりをつける働きもしている。
 ポズナンの事務所を訪れると、長期失業者のためのワークショップが8つ行われていた。その1つ、縫物のクラスでは、女性たちがおしゃべりしながら、ミシンでテーブルクロスをつくっているところだった。参加者の1人ベアタは、3年間無職で、社会福祉センターからここを紹介されたという。「何もすることがなくて家にいるのが一番つらいの。ここはチャレンジングな人生を送っている人たちが多いけれど、悩みを共有できるからとても助かっているの。私も早く長期失業状態から抜け出して、安定した暮らしがしたいわ」と語る。
 調理ワークショップでは、スタッフ等のために毎日ランチをつくる。「ここで習ったサンドイッチの盛り付け方を家で披露すると、旦那が喜んでくれたわ」と参加者のイルナは言う。
 お昼に食べた豆スープは、たっぷりの愛情の香りがした。

6月9日 パート1 @ベルリン→ポズナン、ポーランド
 宿が同じだった上海出身のチェル・ライと、偶然電車の出発時刻が似ていたので、ともにベルリン中央駅へ出発。9時半発の彼女を見送った後、自分のプラットホームへと向かう。9時40分に中央駅を出発すると、進行方向に向かって右側の窓からアレクサンダー広場のテレビ塔が目前に迫りくる。道に迷いそうになるといつも助けてくれた全長365メートルのこの塔ともお別れだ。
 ポーランド・ポズナン行きの列車は、6人掛けのコンパートメント仕様。発車早々向かいのドイツ人のおじさんがCDウォークマンで音楽を聴き始めたのだけれど、音漏れしているサウンドが素敵に聴こえたので、思わず「だれが歌っているんですか?」と尋ねてしまった。ノートに書いてもらと、「Barbel Wachholz」とのこと。あとでYoutubeで、「Abends kommen die Sterne(夜には星が来る)」なんかを聴いてみたのだが、歌い上げ系でなかなかよい。
 身振り手振り80パーセント、英語18パーセント、ドイツ語2パーセントのその会話を横で聞いていてクスっと笑ったのが、同じコンパートメントに座っていたアメリカ人のジャスティン。この笑いがきっかけで旅に出た理由なんかをお互い語り合い、コンパートメントは一挙に話に花が咲いた。
 ミネソタ州出身のジャスティンはパスポートをもって海外へ旅に出かける数少ないアメリカ人。2カ月間ヨーロッパを旅してから就職活動をするという。アメリカ人のパスポート保有率は2割以下で、“グローバルな視点”を強調する割には内向き、という話をアメリカ人から聞いたのは初めてだった。他にも、4年ごとに大統領選挙があるので、共和党も民主党も互いの政策を否定しあうばかりで、なかなか1つのことが進んでいかないという話などすごく納得。誰のせいというのでもなく、このシステムだと「変化」ばかりが起こり、なかなか「成熟」には達しないのかもしれない。
さっきまで読んでいたRolf Pottsの『Vagabonding: An Uncommon Guide to the Art of Long-Term World Travel』という本を薦めてくれた時には、3時間弱の電車の旅は終わろうとしていた。



6月8日 パート2 @ベルリン
 昨晩、宿で同室の、上海出身のチェル・ライと話していると、なんとあのベルリン・フィルで13時からフリーコンサートをしているという。
「ほんとに?!」と半信半疑で、でもやって来ましたベルリン・フィル。受付で恐る恐る「フリーコンサートがあるって聞いたんですけど、本当ですか・・・」と小心者丸出しで聞くと、「あーそれは、毎週火曜日だけだよ」とのこと。今日は・・・水曜日ですね・・・がっくし・・・。
 でも、今日も13時から、なんと3ユーロ(約360円)で内部ツアーをしているという!迷うことなく、ツアーの一員に加わった。
 まずは、大ホールへと一同大移動。扉の向こうでは、コントラバスがリハーサル中だった。ハンス・シャロウンによって設計され、1960年から63年にかけて建てられたベルリン・フィル。ステージ前方、観客後方の「靴箱型」のステージではなく、初めてステージを中央に置くスタイルが採られた。これをシャロウンは「公園でストリートミュージシャンが音楽を奏でたら人々は彼の周りを取り囲むはずだ」と語り、人間の自然な行動に基づいて、この構造を採用したという。
 観客席はあたかもブドウ畑の谷のように配置され、この空間で水平な線を描くのはステージだけ。天井は星降る夜空を思わせ、まるで野外音楽堂のよう。
 第二次世界大戦後のドイツでシャロウンは、「皆が等しい機会をもつ」「会場一帯がコミュニティになる」ということをめざしたという。仰々しい飾りを排してシンプルに徹し、自然からアイディアを得た有機的なデザインには、この建築家の思想がさりげなく示されている。
 1時間のツアーを終えて外に出ると、深い緑の森が誘う。昨日、ベルリンに留学中のライターの三浦愛美さん(http://punktchen-m.blogspot.com/)に連れて来てもらった時には、リスもお目見えした多様性に富む森だ。いい音楽を聴いた後に、こんな森で余韻に浸れたら最高だろうなぁ・・・。
 宿に帰って、シャロウンの建築を思い起こしながら、PCに入れてきたサイモン・ラトル指揮/ベルリン・フィル演奏の「牧神の午後への前奏曲」「海」「おもちゃ箱」を聴きながら、眠りについた。



6月8日 パート1 @ベルリン
『善き人のためのソナタ』(’06)を知っていますか? なんて改めて聞くまでもなく、本当に素晴らしい映画だった。
舞台はベルリンの壁崩壊5年前、1984年の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)の局員ヴィースラー大尉が、劇作家ドライマンとその恋人の舞台女優クリスタを監視し、彼らが反体制である証拠を見つけるように命じられたことから物語は幕を開ける。盗聴器を仕掛け、日夜彼らの監視に励むヴィースラー大尉。だが、聞こえてくる彼らの会話や息遣い、そして美しいソナタは、大尉の固まった心に、少しずつ人間性を取り戻させるのだ。
 ベルリンに来て、まず行きたかったのは、この映画のラストで使われたカール・マルクス通りにある「カール・マルクス書店」。1953年オープンのこの書店は、08年に閉鎖されたのだが、看板はそのまま残されていた。あのラストシーンの余韻をまた思い出し、しばし本屋前でたたずむ。
 それから2日。今日は、宿から地下鉄を乗り継ぎ、「Magdalenen-strasse」駅で降りて「シュタージ博物館」へやって来た。
 木の根っこに、ネクタイピンに、時計・・・さまざまなところにカメラや録音機をしのばせて、人が人を監視しあった時代・・・友人や親せき、家族にも心許せない疑心暗鬼の世界に生きるというのは、どれほど息苦しいものだったろうか。
 先日訪れたベルリンの壁跡地でも、それほど高くなく薄い壁は、どうにかしたら乗り越えられそうな夢を見させる。だが、「監視社会の息苦しさを逃れて西へ」、そう思って乗り越えようとした壁の向こうに、死が待っていることも少なくなかった。
『善き人のためのソナタ』大尉を演じたウルリッヒ・ミューエは東ベルリン出身で自身も監視された過去をもつという。
 現在、東ベルリンの中央駅だったOstbahnhofからすぐのシュプレー川沿いに残る最長のベルリンの壁跡は、イーストギャラリーとして、世界中のアーティストによるアート作品に生まれ変わっている。

2011年6月8日水曜日


6月6日 パート1 @ベルリン
 ベルリンの壁崩壊の翌年からこの地に住む、フリーライターの見市知さんと会う。
 朝ごはんで、なぜかいきなり壁話に。ベルリンの壁崩壊は、生涯で一番初めに意識した「ニュース」かもしれない。新聞に黒々とおどる見出しや、テレビから何度も流れる壁の倒壊の映像は、ものすごく象徴的で、子どもながらに1つの時代が終わったことを肌で感じたことを今でもリアルに思い出す。
 見市さんも、壁倒壊にショックを受けて、「ベルリン、行かなきゃ!」と思ったという。関西人の私は、「いやいや・・・行かなきゃって、ご近所さんちゃうねんから・・・」と思わず突っ込みそうになったけれども、見市さんは、実際に学校の交換留学の制度を利用してベルリンに来て、そして現在に至るのだから、まさに「ベルリンに呼ばれた」としか言いようがない。
 見市さんに「89年ってほかに何があったか覚えてますか?」と聞かれて、とっさに答えらなかったけれど、昭和が終わった年なんですね。本当にいろいろあった年だった。
彼女のブログ「Tram」(http://www.tram-magazin.de/article/54983473.html)での、「ベルリン・カレーソーセージ紀行」がすごく気になっていたので、ランチはそれをリクエストしていた。行きつけのところに連れて行ってもらうと、早くも列ができている。
ここのお店のソーセージは皮なしソーセージ。見市さんによると、物資不足だった時、中身はあるけど皮がないという事態に陥り、それ以降、皮なしを通しているとのこと。思わず「へぇ~」とテーブルをたたく。
夏真っ盛りの感のあるベルリンの日差しの中で、炭酸入りレモネードとカレーソーセージは絶妙な取り合わせでした。
 
6月5日 パート1 @ベルリン
 Nくんとはインターン先が同じだった。現在彼は、ベルリンで、太陽光発電開発の会社に勤めている。あまりにもタイムリーなこの時期に、再会を果たすことになったため、話題がどうしても原発の話になってしまう。
 Nくんによると、3・11以降、ドイツのメルケル政権は脱原発路線を表明。特に、保守の牙城だったドイツ南西部バーデン・ヴュルテンベルク州議会で、緑の党が圧勝し、ドイツ初の緑の党の州首相誕生すると、脱原発路線への追い風に。6月6日には、2022年末までにドイツ国内の全原発を廃止することを定めた原子力法改正案を含む10の法案が閣議決定された。
目を見張る即決っぷりに思わずブラボーと言いたくなった。もちろんここに至るまでに市民も何万人規模のデモをしており、Nくん自身も参加したと語る。ちなみに、ドイツの電力供給は昨年末で原子力が22%、水力や風力、太陽光などの自然エネルギーは16%。政府は原発を順次廃止する一方で、自然エネルギーの比率をさらに上げ、節電も進めていくという。
 そういえば、ミュンヘンの社会的企業「ディナモ」で話を聞いた代表のカリンさんからも、「日本でも原発反対のデモをしている様子をテレビで見たわよ。海の向こうから応援しているわよ」と声をかけられた。そして、彼女自身、25年前のチェルノブイリで「知らぬ存ぜぬ」「直ちに影響はない」を繰り返すドイツ政府にすっかり幻滅した経験があることから、今回の日本政府の対応はまるでデジャヴュのようだったと語る。
 でも、人も組織も変われる。25年前とは違う道を歩もうと決断したドイツ政府。市民が政府を動かした。
6月4日 @ミュンヘン、ドイツ→ベルリン
 6月4日の朝は二度明けた。
9時55分発の電車に乗るためには、7時半に起きて・・・と前夜考えて床についたのだが、朝起きて時計を見ると、腕時計が10:09を示している!! きょえーっっとがばっと飛び起き、どうやって次の電車に乗ろうか、寝起きの頭で考えながら顔を洗って、バジャマを脱いだ。・・・が、何かおかしい・・・なんだか空が10時9分の空ではない気がする・・・。
再度腕時計を確かめると、なんと10:09の逆さまの06:01だった・・・脱力・・・。二度寝の末、無事7時半に二度目の6月4日の朝が明けた。
6時間の電車の旅を終えて、無事ベルリンに到着。

2011年6月6日月曜日




6月3日 パート3 @ミュンヘン、ドイツ
 路上から墓場まで―――『BISS』方式を可能にしているのは、三本柱の最後の1つである、「ゴッド・ファーザー」制度があげられる。
 これは、個人や会社が寄付を表明した場合、彼らの寄付によって、雇用された販売者さんの給料を払っていくというものだ。『BISS』 の誌面では、毎号1ページが割かれ、現在いる36人のゴッド・ファーザーと雇用販売者を紹介している。例えば、前述の販売者マーティンは、アントニー・ツォウナー・スティフトゥングというゴッド・ファーザーがいる。販売者はゴッド・ファーザーに会うもあわないも自由。ヒルデガルドによると、ゴッド・ファーザーへ感謝の意を表す責任があるのは販売者ではなく、『BISS』 誌だということを、初めに明確にしているとのこと。
 市民と市民がともに人間関係を結びなおすゴッド・ファーザーのシステム。マーティンの穏やかな顔を見ていると、生涯の「居場所」を確保できると、人はここまでリラックスできるんだなぁ、と感じる。
 販売者のことを一番に考えてきたヒルデガルドの17年。『BISS』の文化は、ミュンヘンの地で確実に根を張りつつある。