2011年5月28日土曜日


5月26日 パート3 @パリ
「古本屋に行きたいんだけど・・・」と切り出すと、『マカダム』誌のキャロラインが、サンミシェルを勧めてくれた。メトロ4号線のサンミシェルに向かう途中、パリのど真ん中のメトロの駅「シャトレ(Chatelet)で乗り換えようと思っていると、弦楽団に遭遇!
「パッヘルベルのカノン」に始まり、その美しい音色は、足早に急ぐ人の足を止め、5分もすると人だかりができてしまった。
 メンバーに話を聞くと、毎週火、木、日にここで演奏しているという(http://www.preludedeparis.fr/)。
弦楽の音に、チャリンチャリンと、楽器ケースにコインを投げ入れる音が重なった。
 

5月26日 パート2 @パリ
 バスティーユを後にして、『マカダム』のもう1人の中心人物、フランソワに話を聞くことになった。パリ東部にある、彼の本業のほうの事務所へと向かう。
フランスのストリート・マガジン『マカダム』は、紆余曲折を経てきた。16年前に、産声を上げたこの雑誌は、急成長を遂げて、一時はフランス全土で100万部を売り上げ、大きなオフィスを持つまでになった。だが、栄光は長くは続かず、06年第1幕が幕を閉じ、第2幕が開くまでに1年の時を要した。その立役者がフランソワだ。
「ガブリエルという元販売者の男性に偶然会ってね。『もう一度「マカダム」を立ち上げてくれないか』って頼まれたんだよ」。こうして07年、『マカダム』は再度パリの路上に姿を現したのだった。
現大統領夫人カーラ・ブルーニをインタビューしたフランソワだ。だが彼女が表紙の号は、夫であるサルコジ大統領の政策もあって、パリではそんなに受け入れられなかった。率直に、フランソワがそのことをカーラ・ブルーニに伝えると、彼女は「カーラ・ブルーニ」財団を立ち上げ、今度は金銭的に『マカダム』誌を支えてくれているという。率直にものを言って、前向きに行動する2人の心意気に、素直に感動してしまった。
 ボランティアで『マカダム』の代表を務めるフランソワに、『マカダム』で一番思い出に残っていることは何か聞いてみた。「1人の若い販売者が大学の図書館に職を得たという知らせをくれたんだ。しばらくすると、『家に住むことができたので、ぜひ遊びに来てください』って呼んでくれた。家族で訪れると、夕飯を振る舞ってくれてね。ともに食卓を囲めたのが嬉しかったね」


5月26日 パート1 @パリ
 パリ12区にあるオペラ・バスティーユ前で、現地のストリート・マガジン『マカダム(Macadam)』のスタッフ、キャロラインと待ち合わせ。宿からメトロ3号線と8号線を乗り継いで、約束の10時に無事たどり着くことができた。
『マカダム』誌は現在、キャロラインとフランソワの2人によって、雑誌の発行と販売がなされている。フランス全土の販売場所や雑誌の取材&デザインなどは、多くのボランティアに支えられている。パリでは15人の販売者によって、月1回1万部が発行されている。
 表紙は有名人が飾ることも多く、これまで、現大統領夫人のカーラ・ブルーニや、元サッカー選手で、映画『エリックを探して』(’09)が話題になったエリック・カントナも登場した。
 エリック・カントナにインタビューしたのは、目の前にいるキャロライン。『エリックを探して』は、かなりお気に入りの作品だったので、「カントナどうだった?!」と興味津々に聞くと、「いやー、私も大ファンだからすっかり舞い上がってしまってねー」とキャロライン。「『ファン(fan)との関係はどうですか?』って質問したんだけど、彼が『ファム(femme/フランス語で「女性」を意味する)との関係?』って聞き返すのよ。彼、南仏の出身だから、訛りがきつくて、そんな誤解をして、2人で大笑いしたわ」
 実はキャロライン、フランソワともに、仕事は別に持っていて、『マカダム』での仕事はボランティアだ。フランスのさまざまな財団から助成金をもらい、『マカダム』自身は事務所を持たず、いろいろなNPOの事務所の一角を雑誌の仕入れ拠点にさせてもらいながら、雑誌の発行を続けている。
 だけど、キャロラインに悲壮感は全く感じられない。自然体でさわやかなこのパリジェンヌをいっぺんで好きになってしまった。

5月25日 @アムステルダム→パリ
「タリス」に乗って、パリに行こう!
 と、アムステルダム中央駅をあとにする。
 Sarah Vaughan(サラ・ヴォーン)の歌う「April in Paris(パリの四月)」とはいかなかったけれど、1カ月遅れのもパリの五月をしっかり味わおう。(http://www.youtube.com/watch?v=2MURTyqwOmA)。
 3時間の電車の旅を終えて、無事華の都に到着。

5月24日 パート2 @アムステルダム
 逆方向のトラムに乗ること数回。天性の方向音痴は、さらに磨きがかかっているように思える。ようやく、アンネ・フランクの家にたどり着いた。運河沿いのこの家に、毎日世界中から観光客が訪れる。空が青く染み渡ったこの日、正直ここに来るべきかかなり迷った。過去に起こった現実に直面するのには、あまりに日和がよすぎる気もしたけれど、結局、この家の前の長蛇の列に加わることにした。
 アンネ・フランク一家が生活した屋根裏に入り、息を吸う。8人がひしめき合って暮らし、昼間はカーテンを開けることもできず、あの青い空を見ることもできず、いつ終わりが来るかもわからなかったことを思うと、息が詰まる。
 皆食い入るように1人の少女の写真を、直筆の日記を見つめる。父オットーが語る少女の一生や収容所での生活に耳を澄ます。いろんな言語がささやかれるこの部屋で、平和を思う気持ちだけは、共通の思いとして人々の胸に刻まれたに違いない。

5月24日 パート2 @アムステルダム
 続いて、アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)へ。レンブラントの「夜警」は見とかないとなぁ、と急ぎ足だったのを引き留めたのは、2メートル弱の黒い箱。大の大人たちが目を輝かせて、その黒い箱の前で「何か」を待っている。
14時10分。その「何か」が起こった。黒い箱にはめ込まれた丸いすりガラス部分に男性の人影が映り、中からマジックインクで14時10分の位置に時計の針を書き込んだのだ。
これは、オランダのデザイナー、マーティン・バース(Maarten Baas)による「Grandfather Clock」という作品(http://www.youtube.com/watch?v=aYD-CDMhnmI&feature=related)。時を告げ終わると、男性の人影は、また「おいしょっ」と箱の中で座り込んだのか、見えなくなった。それが何かの合図のように、集まった人たちも、美術館の中に散り散りに消えた。一連の観客の動きまでもがマーティン・バースに計算しつくされているようで、その一員に加わったことで、なんだかアート作品の一部になったような不思議な感覚を味わった。
「夜警」は、作品それ自体よりも、「1715年に、ダム広場のアムステルダム市役所に移された際、上下左右が切り詰められてしまった」という事実に驚いてしまった。市役所の部屋に絵がきちんと納まるようにはみ出す部分を切り落とした・・・ってなんて大胆な・・・。
5月24日 パート1 @アムステルダム
 アムステルダムの地に足を踏み入れたならば、絶対ゴッホ美術館に行きたいとずっと思っていた。長らく、彼の描いた「花咲くアーモンドの枝」に心惹かれていた。節くれだったアーモンドの枝の生命力に満ちた感じも好きだったし、何より背景の青の美しさは、日常に疲れたとき、ポストカードを眺めているだけで心洗われる感じがしたものだ。
 実物の前に立った時、思わず「うわぁ…」とつぶやいて、しばらくその場に立ちつくしてしまった。
 ロシア・サンクトペテルブルグに滞在中、現地のストリート・マガジンのスタッフアーカディは、ドストエフスキーの言葉を引用して、「美は世界を救う」と言ったけれど、この美しい青色に本当に助けられてきたなぁ、と改めて思った。
 展示の説明によると、弟テオに男の赤ちゃんが生まれたという知らせを受けて、ゴッホはこの絵を描き、贈ったという。
精神を病みがちだったというゴッホだからこそ、新しい命の誕生をこんな美しい色で祝福したかったんじゃないかなぁ・・・100年の時を経て私もこの美しい青色に励まされたこと伝えたかったなぁ・・・なんて考えながら、絵の前に立ちつくしていると、いつの間にか人だかりができていた。
「アーモンド」の花言葉は、「希望」だという。

2011年5月27日金曜日

5月23日 パート3 @アムステルダム、オランダ
 オランダに来て、オランダ人のバランスのとり方のうまさに、毎回うならされている。たとえば、移民を寛容に受け入れるけれど、オランダ語や伝統料理はしっかり守られている。そのバランスが、絶妙に見える。
そんなバランス感覚は、国土の4分の1が海抜0メートル以下で、干拓によって街を築いてきたこの国の人の知恵として生まれたものなのかもしれない。
 14年間住んだこの国を、美術家のタケトモコさんはこう評する。「愛国心はあるけれど、立場をわきまえているんですね。国が小さいからこそしがみついていない。ちゃんと手放せられるから守れている、それがオランダのいいところじゃないかな」
 タケさんによると、九州ほどの大きさのこの国でまず新しい概念が生まれて実験されてから、他のヨーロッパの大国で定着していくものが多いという。株式会社にフェアトレード、ワークシェア・・・いずれも小さいからこそ生み出された先進性の産物だ。
 これだけ人と物の動きが速くなった21世紀、ヨーロッパのこの小さな国から学ぶことは多いと思う。長らく言われてきたことだけれど、「スモール・イズ・ビューティフル」をオランダで体感している。

5月23日 パート2 @アムステルダム、オランダ
 ヨルンの次に話を聞いたのは、元『Z!』の販売者で、現在はスタッフとして働くヨープ・ハマースマ。
「アムステルダム中央駅で『Z!』の販売者に出会ったのがすべての始まりさ。その前は6カ月野宿していたんだけど、地獄のようだった。公園で1日、何もすることがなくて、どこにも行くところがなくて、公園で日がな1日ボーっとしてたのが一番耐えられなかったね。そんな地獄のような毎日でも人生は続いていくんだ」
 10年間の雑誌販売の後、ヨープがスタッフとして働くようになってもう5年になる。ホームレス状態という同じ経験をしたからこそ、現在の販売者に共感し、時に叱責もする。そんなハマースマの姿に、励まされる販売者さんも多い。
 公園で野宿をしていた時のヨープ・ハマースマのように、居場所がないことほど心がすさむことはない。
 『Z!』の事務所を後にして訪れたNPO「マコム」では、居場所がない、「ホーム」と呼べる場所がない人には誰でも、食事やコミュニケーションの場を提供している。7年間ここで働くキャサリン・デンカースは語る。「オランダにはタウスロースとダックロースという言葉があります。タウスロースは「ホーム」のない人、ダックロースは屋根のない人。私たちは、タウスロースであれ、ダックロースであれ、居場所のない人に居場所を提供したいのです」
 17時過ぎ、1階は食事時だった。2階に上がると、コーヒーを飲みながら談笑する人、絵筆を握る人、次に描く絵の構想を練る人と、思い思いに時を過ごしている。皆表情に険しさがなく、穏やかな顔をしている。
 会話の中でキャサリンはこう語った。「孤独が人を死に追いやる」と。雨風をしのげる屋根はあっても「ホーム」といえる居場所がない人は、世界中にいるに違いない。どうしたら、私たちの住むこの世界を皆にとっての「ホーム」にできるのか。正解はないけれど、答えに向けて動いている人々の輝いた顔に勇気づけられた1日だった。

5月23日 パート1 @アムステルダム、オランダ
 トラムを乗り継いで、アムステルダム東部にあるストリート・マガジン『Z!』の事務所にやって来た。
 販売担当のヨルンが、笑顔で出迎えてくれる。95年に創刊されたこの雑誌の歴史を紐解くと、この国の歴史を垣間見ることになる。
「初めの5年は、ホームレス問題をどうやったら目に見える問題にするかに苦心していたね」と語るヨルン。当初、販売者は、オランダ人や、この国の合法ドラッグ目当てでやって来た英国人、ドイツ人が多かったそうだ。
 だが、世論などによって、政府がホームレス問題に取り組むようになり、オランダ人は屋根のある家に住めるようにする政策をすすめると、後に残ったのは「違法」状態でこの国に滞在している人たちだった。
 現在、『Z!』の販売者は75パーセントがオランダ人ではない国籍の保有者で、その国々はポーランド、チェコ、旧ソ連、ブルガリア、ルーマニアと35カ国におよぶ。『Z!』では、02年に販売者の写真集を出したが、そのスタイリッシュな本も、販売者の多様性を如実に表す。
「僕らは政府の助成金をもらっていないから、その人が合法的にオランダに滞在しているか、違法かなんてことはどうでもいい。ただ、その人がホームレス状態でありさえすれば、販売者として登録できるんだよ」と語るヨルン。
 10年以上この雑誌を通して販売者さんとかかわってきた彼に、その間もっともうれしかったことと、悲しかったことを聞いてみた。
「うれしかったことは、ある日刷り上がったばかりの新しい号が事務所に届いたので、トラックに駆け寄ると、なんと運転手が元販売者だったんだよ! 皆で『おう、何やってるんだよ?!』って声かけると、『何って、仕事を手に入れたんだよ! 今トラックの運転手やってるんだよ』ってさ! 皆で、その喜びを分かち合ったよ」
「一番悲しかったことは、ある販売者のお葬式に出席したことだね。49歳でヘロイン依存症の女性だった。知り合いがアコーディオンを弾いてくれて、その音色のもの悲しさを今でも覚えているよ」


5月22日 パート2 @アムステルダム、オランダ
 アムステルダムでお世話になっている美術家タケトモコさん宅のベランダには、居候がいる。それは、3羽のハトたちだ。 
 はじまりは2年前。タケさんが傷ついたハトを助けて家に連れて来たのが始まりだった。以来、毎年このベランダへ卵を産みにやって来るのだという。今年はパートナーと息子を連れて、3羽輪番体制で卵を温めている。片時もその場を離れず、無心に卵を温め続ける彼らの姿を見ると、こうやって命って生まれてくるんだなぁと、なんだか感慨深い。

2011年5月23日月曜日


5月22日 パート1 @アムステルダム、オランダ
 朝、いつものように現代美術家のタケトモコさんとカプチーノを飲みながら話していると、開けた窓から、何やらリズミカルなゴスペルが聞こえてきた。
 そんなわけで、タケさんの家から徒歩2分のそのゴスペル教会に、今日は2人で出かけてみることにした。足を踏み入れてみると、そこはまるでハーレム!ギター、ベース、ドラム、ピアノとフルバンドそろったゴスペル隊が演奏中。会場の皆様も身体を揺らしてノリノリだ。
 ひとしきり歌い終えると、静まるときの中で、人々は祈った。ちらっと薄目を開けて斜め前の黒人女性の顔を見ると、美しい横顔で祈っていた。
 アムステルダムに着いた日、タケさんから日本の原発の詳しい情報を聞き、かなりショックを受けていた。遠く離れた地にいる自分にできることは何だろうか? そう考えたときに、一番にできることは、ただ祈ることだった。美しい大地や海を汚し続けている原発の状態が少しでも良くなることを。現地で働いておられる人の心身が守られて冷静な判断をし、倫理観を捨てないことを。日本の人々が絶望しきらずに希望の光をもつことを。


5月21日 @アムステルダム、オランダ
 アムステルダムでは、この地を拠点に世界で活躍する現代美術家のタケトモコさん宅にお世話になっている。『ヨーロッパ薬膳』(神戸新聞総合出版センター)などの本を出されているオオニシ恭子先生に師事されているタケさん家のご飯は、そんじょそこらのカフェやレストランのご飯より、ずっとおいしい。じーんと心身に染み入る手間暇と愛情をかけた料理たちに、旅の疲れがすっかり癒されている。
 タケさんのご飯を食べるようになってから、口にする食べ物が身体をつくるんやなぁということを実感する日々。ベジタリアンの彼女の食卓にお肉が載ることはないけれど、「物足りない!」と歯ぎしりすることは一度もない。それよりも、なんだかものすごく満たされて、心が毛羽立っているときもすーっとそれをおさめてくれるようなその優しい味に、「マクロビオテック」への興味は募るばかり。
「味覚って五感の中で一番開かれたツールだと思うんですよね。食べ物って身体に入ると目には見えないけれど、目に見えないものが生きる力になるでしょ。ふとした会話とかさ」とタケさん。
エスプレッソマシーンで入れたコーヒーにホイップ豆乳を落としたカプチーノが、豊かな時間を彩る。おいしい一杯のコーヒーは、素朴で優しい味のお料理は、究極のPeaceMaker(平和をつくるもの)じゃないかなぁ、と思うのだ。
5月20日 パート3 @ユトレヒト→アムステルダム・オランダ
チェット・ベイカーのアルバム『チェット・ベイカー・シングス』をPCに入れてきている。彼の歌声はなぜかいつも心を落ち着かせる。最後はドラッグまみれで悲劇的な死を遂げたのに不思議だ。
“アーネムのヘンリー・デーヴィッド・ソロー”こと、ライン川に浮かぶ船に住むヴィクター家にもこのCDがあり、話が盛り上がった時に「彼はよくアムステルダムで録音してたんだよ」とユトレヒトのストリート・マガジン『ストラート・ニュース』のフランクは言った。
『ストラート・ニュース』のあるユトレヒトを離れて、アムステルダムまで30分電車に揺られながら、そんなことを思い出していた。
 いよいよアムステルダム中央駅に到着。と、都会・・・。人波にもまれながら、そういえば、ここ首都やったなぁ、とつぶやく。
 今回の待ち合わせ場所は、ロマンチックに駅の花屋さん前。しばらくすると、アムステルダムを拠点に活躍している現代美術家のタケトモコさん(http://www.tomokotake.net/)が迎えに来てくれた。

5月20日 パート2 @ユトレヒト・オランダ
 16年間『ストラート・ニュース』の雑誌制作現場で働くフランク。長らく仕事を続けることができた理由を「人助けのためにっていうのでは続けてこれなかったと思う。僕は、自分が楽しいと思えることを、常にしてきたよ」と語る。
 一番思い出深い特集は、「Social-Exclusion(社会的排除)」。表紙に「Do you see me?」と大書きされ、ホームレス状態の人によって販売されたこの号は、反響が大きかったと言う。「子どもたちが販売者に寄ってきて、『Do you see me(見えるか)ですって? もちろん見えてるわよ!』なんて言ったりしてね」。ともすれば見えない存在になりがちなホームレス問題を、さりげなく皆に気づかせた。
 毎週火曜日には、販売者さんのWriting Clubを催している『ストラート・ニュース』。ハキムというモロッコ人の販売者さんは読み書きはできないけれど、吟遊詩人として有名だという。「彼の詩はとてもオリジナルなんだよ。たとえばさ、『My heart is big as a stadium/Who will come and play with me.(スタジアムほど大きい僕の心/誰が来て僕と遊んでくれるの)』なんてさ」とフランク。吟遊詩人の詩は時折誌面を飾り、読者に人気だという。

5月20日 パート1 @アーネム→ユトレヒト
 アーネムから電車で約20分。オランダのストリート・マガジン『ストラート・ニュース』は、ユトレヒトに本拠を置く。8世紀から宗教の中心として重要な役割を担ったこの街は、現在はミッフィーの生みの親、ディック・ブルーナさんの住む町としても有名だ。
 ユトレヒト駅から事務所に行く道すがら、3人の販売者さんに会う。「今号どう?」とフランクが声をかけると、「うーん、裏表紙にも魅力的な写真がほしかったかなぁ」と販売者さん。しばらく2人で話し込む。
 駅から歩いて13分ほど。赤い扉の『ストラート・ニュース』の事務所に到着。現在80人の販売者さんを抱え、月2万部から2万4千部を発行している『ストラート・ニュース』。当初、販売者さんはオランダ人のホームレス状態の人が多かったが、現在は、難民や経済移民などがその80パーセントを占めるようになった。
 実際、カウンター脇で、販売者さんが雑誌の仕入れをしていく様を見ていると、中国人、ブルガリア人、チベット人、チェコ人・・・とその国籍は様々だ。
 ユトレヒト駅であいさつを交わした販売者の1人、オランダ人のバートが仕入れのために事務所にやってきた。以前は、ドラッグ依存症で、現在の販売場所であるユトレヒト駅で野宿をしていたという彼。「現在はそれと同じ場所で仕事をしているんだから不思議だよね」と笑う。「自分には、今も連絡を取っている家族はいないけれど、お客さんからたくさんの愛情をもらっている。毎日売り場によってくれてハグをしてくれる人もいるよ。僕は、20人のお母さんと40人の祖母をもっているようなもんさ」


5月19日 @アーネム・オランダ
 コペンハーゲンで、無料のシティ・サイクルにトライしたのが、忘れもしない5月12日。サドルを下げても下げても、ペダルに足が届かず、北欧の人の足の長さを思い知った1日だった。
 オランダも自転車大国。そして、オランダに住む人も、まごうことなく、足が長い。それなのに、今日はフランク&ベアの友人宅を自転車で訪れるという。
「足届かないと思う・・・」と涙ながらにコペンハーゲンでの経験を話すと、「ちょっと待っとき!」と、フランクがサドルの部品を1個抜き取り、「これでどう?」と自転車を差し出す。
 恐る恐るサドルに乗ると、足がペダルに、そして地面に着いた!! こうして「Montague」号は、アーネムでの愛車に決定! へこんだ自尊心を取り戻す。
 フランク&ベアの友人ヴィクターは、ライン川に浮かぶ船に住む。約100歳のこの船は、約10年前にヴィクターがタダ同然で引き取り、自分で床を組み立て、窓を作り、「ホーム」に仕立て上げた。船内に足を踏み入れると、キッチンあり、ダイニングあり、リビングありの1LDK。
この船に住む前はオランダ各地をスクウォッティングしていたというヴィクター。1年前から、オランダでもスクウォッティングが違法になったという。それまでは、10年間だれも住んでいない廃屋をスクウォッティングすることは、この国では合法だった。そう言って、ヴィクターは肩をすくめてみせる。
ヴィクター家の“庭”の森を散歩しながら、“現代のヘンリー・デイヴィッド・ソロー”の入れてくれたレモネードを皆で味わった。


5月18日 @ノイミュンスター・ドイツ→アーネム・オランダ 
 ドイツから3本の電車を乗り継ぎ、6時間かけてやってきたのは、オランダはアーネム。
 ホームに着くと、ストリート・マガジン『ストラート・ニュース(Straat Nieus)』で働くフランクと相棒犬ウーフィーが迎えに来てくれていた。
 駅から5分のフランク&ベアの家は、19世紀に建てられたもの。2年前に越してきて、じっくり時間をかけながら、自分たちなりの家をつくりあげつつある。蔦が白壁をつたい、中庭に金魚の住む池。向こうの部屋からはベアのピアノの音が流れ、装丁の美しい本たちが本棚から顔をのぞかせる。屋根裏に行くと、日本好きのフランクが自分でつくった障子の引き戸に、新緑が出迎えてくれるベランダがある。住んでいる人の人となりを表す快適な空間。一瞬にして恋に落ちてしまった。

2011年5月19日木曜日


5月17日 @ノイミュンスター・ドイツ
 現在、ドイツ・ノイミュンスターのストリート・マガジン『ディー・ジェルサレマー』の代表を務めるアンドレアスは、2001年の秋から、ここで働き始めたという。現在、唯一の正規スタッフ兼代表として、雑誌の編集からカフェの運営まで、幅広くさまざまな責任が彼の肩にのしかかっている。事務所では、電話が終わったと思ったら、来客、打ち合わせ・・・と席を温める暇もない。
 だが、ホームレス状態の人、アルコールやドラッグ依存症の人、一般の住民や子どもたちなど、さまざまな人たちがこの場所で共にコーヒーを飲みながら交流をもっている様子を見ているだけで、気持ちが満たされるのだという。
 そんな彼の夢は、ホームレス状態の人たちに提供できるようなグループホームのような家をもつこと。「そこに住む人が、『ここが僕のホームだ』って胸を張って言えるような家にしたいと思っているんだ」、そう言って、アンドレアスは次のミーティングへと駆けて行った。


5月16日 @ノイミュンスター・ドイツ
 ドイツ北部のノイミュンスターは人口8万人の街。この小さな町にも、ストリート・マガジンが存在する。『ディー・ジェルサレマー』の歴史は、カフェから始まった。
 1987年、街の貧しい人たちやアルコール依存症の人たちとどうにか交流を持ちたいと、この街に住む夫妻が、家に招いたのが始まりで、94年にカフェを併設したストリート・マガジンが誕生したのだ。現在雑誌は、2カ月に1回、1700部が発行されている。
 カフェでは、朝食、昼食、夕食が誰にでも無料で提供される。現在、日に約60~140人が訪れるという。食べ物は地元の食品会社や農家が提供してくれ、1人のフルタイムのスタッフと30人近いボランティアによって運営されている。
 カフェの台所をのぞいてみると、ちょうど、2日前からボランティアを始めたというポールがランチの準備中。味見をさせてもらったら、野菜がごろごろ入った何とも深い味わいの身体が温まるスープだった。
 カフェでは常連のミヒャエルが、ちょうどコーヒーを飲んでくつろぎ中。「12年間ほぼ毎日ここに通っているよ。時には仲間と話したり、時にはずっと本を読んでる。ここのカフェは、僕にとって第二の故郷と言える場所だね」



5月15日 @ノイミュンスター・ドイツ
 日曜日。アンドレアス一家とともに、バルト海へ繰り出す。お気に入りの貝を見つけたり、刻一刻と変わる海の色を眺めたり、石投げしたり・・・思い思いに海を楽しむ。
 雲を読んでいたアンドレアスが、「そろそろ雨が来そうだから、車に戻ろう」と皆に声をかけた5分後、大粒の雨が降ってきた。
 雨のドライブの末、キール運河にたどり着く。ユトランド半島の付け根に位置するこの運河は、北海とバルト海を結び、スエズ、パナマと並んで世界3大運河と称せられるという。
 アンドレアス一家の説明を聞きながら、人口8万人の街ノイミュンスターから少しのドライブで、海を通して実は世界と密接につながっていることが、なんだか私まで誇らしく思えた。

2011年5月16日月曜日


5月14日 パート2 @コペンハーゲン→プリーツ・ドイツ
 コペンハーゲン中央駅からドイツに向けて列車が出て、2時間。何やら、急に乗客がそわそわし始め、車内の照明が消えた! 何事かと思って隣の人に聞くと、なんと2両編成の列車まるごとフェリーに乗って海を渡るので、列車の乗客は車内から出て、フェリーの船内にとどまるように、とのこと。予想していなかった船旅に、胸が高鳴る。
 デッキに出ると、デンマークの陸地がみるみる遠ざかっていく。
 船内で、アンデルセンの『絵のない絵本』を読み終えた。時空を超えて旅した月の話のようでもあり、悲喜こもごもの人間模様の話でもあり、色彩豊かな織物のような物語集。解説を読んでいると、『影を売った男』(岩波文庫)のシャミッソーが、初めてアンデルセンの詩を翻訳して、ドイツに紹介したという。『影を売った男』は偶然にも旅に出る直前に読んでいて、“影”という、普段はあまりその存在意義を意識していないものを売り渡してしまったがために、悲喜劇に巻き込まれる男の話に魅了されていた。アンリ・カルティエ=ブレッソン撮影のカミュの写真に続き、「この2人、同時代人だったんだー」と、感激してしまった。
 45分ほどの船旅は終わり、また皆、列車内に戻る。無事海を越え、ドイツに到着。「Lubeck」駅で在来線に乗り換える。午後10時、列車は漆黒の闇を進み、「旅のおともに」と友人Fから渡されていた『銀河鉄道の夜』の世界に。
1時間ほど銀河鉄道の旅を終えると、「Preetz」駅に無事到着、現地のストリート・マガジンで働くアンドレアスが駅に迎えに来てくれていた。


5月14日 パート1 @コペンハーゲン→プリーツ・ドイツ
 泊まっているユースホステルのチェックアウトを済ませる。電車までまだ時間があるので、通いなれた王立図書館へ。ブックストアでポストカードを見るともなしに見ていると、なんだか1枚が妙に語りかけてくる。くわえたばこの中年男性の白黒写真。裏面を見ると、アンリ・カルティエ=ブレッソンが撮影したアルベール・カミュだった。この2人、同じ時代を生きたんだ!なんだか妙にこの出会いが嬉しくて、そのポストカードを購入してしまった。
 この水辺の図書館ともお別れかと思うとさびしい。思わず窓際の席に陣取り、川の流れをぼーっと見ていると、電車の時間が近づいてきた。さてと、そろそろコペンハーゲン中央駅に向かいましょうか。
5月13日 パート3 @コペンハーゲン
 ドイツ、南アフリカ、アメリカ、香港、ボスニア、ブラジル・・・・・・ユースホステルで宿泊していると、いろんな国の人々と出会う。けれど、2~3泊して次の目的地に向かうバックパッカーが多く、それに、皆早朝にチェックアウトを済ませるので「ハーイ!」と知り合えても、「またねー」という別れがままならない。
 そんな中、今日ようやく「またねー」が言えた。
ベルギー人のミシェルさんとは、よくキッチンで顔を合わせたので、言葉を交わすようになった。ベルギーの漫画『タンタンの冒険旅行』の話をしたり、これまでの旅行の話をしたり。
今日もばったりキッチンで会ったので、「明日、ドイツに発つんです」と言うと、「そうなんだー」という風にフランス語でつぶやいた。そして互いに、「Bon Voyage!」と言いあい、握手を交わした。初めて旅人と別れを言うことができた瞬間だった。別れは物悲しいけれど、しっかり別れの挨拶ができないのは、もっと悲しい。ミシェルさんの旅に、多くの祝福があることを願う。

2011年5月14日土曜日






5月13日 パート2 @コペンハーゲン
 ラスモスは、デンマークのストリート・マガジン「フス・フォービ」に、6日前から働き始めた新入りだ。でも、ホームレス状態の人たち担当のソーシャル・ワーカーとして9年間働いてきたキャリアがある。
「先日も、『僕たちはテント生活をしているんだけど、服も何も持っていないんだ』といって事務所を訪れたカップルがいたよ。ここの事務所は本当にいろんな人が訪れるけれど、『もう来ないで』とは、絶対言わないで、誰もが安らげる空間をつくりたいというのが僕の夢なんだ」
 販売担当のジミーも傍らで、販売者さんと冗談を言って笑い合っている。コーヒーの香ばしい香りが漂ってきた。ラスモスの夢は、もう、半分は叶っているんじゃないかな、出してくれた紅茶を飲みながら、そう感じた。
「フス・フォービ」の事務所を後にしてその周辺をぶらっと散歩してみた。コペンハーゲン中央駅付近の整然とした雰囲気とは違って、ここは多様な人が生活しているダイナミックな雑然さを感じる。こういうのも好きだなー、と散策を楽しむ。


5月13日 パート1 @コペンハーゲン
 やってきました、デンマークのストリート・マガジン「フス・フォービ」の事務所へ!アポイントをとっていなかっのだが、雑誌編集長のサイモンが快く迎え入れてくれた。
 「フス・フォービ」の創刊は、96年8月にさかのぼる。その約1年前の95年、コペンハーゲンで国連社会フォーラムが開かれた。そのワークショップの1つで、「コペンハーゲンでも英国のビッグイシューのようなストリート・マガジンが必要なのではないか」という機運が生まれたという。
 スティーンとアクセルという2人の若者によって生まれたストリート・マガジン『フス・フォービ』。サイモンによると、「フス・フォービ(Hus Forbi)」とはデンマーク語で「not my business(私の知ったこっちゃないよ)」という意味だという。一方で、「Hus」は「家」を意味する。家は生きることの根幹にかかわり、誰の人生にとっても大切なもの。それを、「知ったこっちゃないよ」で、すまされますか?というデンマーク流の皮肉のスパイスの効いたユーモアがその雑誌の名前に隠されているのだ。
 サイモン自身は、4年前からこの雑誌に携わっている。修士課程で、特にアフリカに関する開発学を学び、ジャーナリストとして活動していたというサイモン。その延長線上に「フス・フォービ」があった。「モザンビークでも、コペンハーゲンでも、貧困がもたらす絶望感は同じなんだよ」と彼は語る。
 販売者さんと人間関係を築けることは、楽しみでもあり苦しみでもある、とサイモンは言う。
「“ホームレス”ではなく、1人の人間として彼らと付き合えるのは、この仕事の醍醐味だ。一方で、ある販売者と仲がいいのだけれど、彼はすごく調子のいい日もあれば、人生とどう折り合いをつけていいかわからなくて自殺しようとするときもある。そんな現実に直面すると、とてもつらいね」
 今年は、1971年から毎年デンマーク・ロスキレで催されている野外ロックフェスティバル「ロスキルド・フェスティバル」でも雑誌販売を行う予定だという「フス・フォービ」。デンマーク中に約600人いる販売者さんにとっても、すばらしい時間となるだろう。



5月12日 パート2 @コペンハーゲン
 泊まっているユースホステルから、デンマーク・コペンハーゲンのストリート・マガジン『フス・フォービ(Hus Forbi)』の事務所へは、昨晩から自転車で行こうと決めていた。
 というのも、コペンハーゲンは自転車王国。老若男女、自転車専用路を颯爽とペダルをこいで行く。その一員にぜひなりたい、と一昼夜野望をたぎらせていた。
 そう思わせてくれた強い味方が無料自転車。20デンマーク・クローネ(約300円)をデポジットすると誰でも乗れるというから、試さずにはいられない。
 さっそくホステル前の無料自転車を1台ゲット。さーて、繰り出すぞ~♪
 ・・・5分後、私は1ミリも前に進んでいなかった。あ、足が、地につかない・・・。サドルをいくら下げても、ペダルにさえもしっかり足がつかない・・・。
 ・・・10分後、すごすごと自転車を元の場所に戻しに行った。コペンハーゲンでの自転車生活10分で、あえなく終了。
 気を取り直して、69番のバスに乗って、「フス・フォービ(Hus Forbi)」の事務所へ。13分ほど乗ると、「Mimersgade通り」の文字が見えてきた。「ここですよね、ここ『Mimersgade通り』ですよね?!」と運転手さんに何度も繰り返すさまは、「初めてのおつかい」状態。でも、そこから、5分も歩くと、見覚えのある「Hus Forbi」の赤いロゴが描かれた建物が見えてきた。
「やったぁ」と扉を開けようとすると、「あれ、閉まっている?!」。張り紙を見ると、なんと「月曜日から金曜日、8時から14時まで」の文字。
「がーん」…現在時刻14時20分なり。
しばらく呆然として後は、「まぁ、しゃーないな」と元来た道をすごすごと帰る。その途中、「フス・フォービ」のカバンをもった販売者さんに遭遇。ハンスという名の彼は、「そうなんだよ、事務所はその時間しか開いてないんだ。でも、また明日来たらいい」と慰めてくれた。


5月12日  パート1 @コペンハーゲン
 宿泊しているユースホステルから徒歩10分のところに、王立図書館、通称「ブラックダイヤモンド」がある。運河に囲まれた中洲にあるその図書館は、すぐにお気に入りの場所になってしまった。本と水辺という2大「大好き」が集結しているとあれば、思わず足が向く。
 早速ラップトップを開くと、サンクトペテルブルグの「盲目の人のための図書館」のスタッフ、アレクサンドラからメールが来ていた。「世界の盲目の写真家たちの展示を計画しているのだけれど、日本人で誰か知らない?」とのこと。うむむ、と「困ったときのGoogle頼み」。
 ネットの波の中で、伊藤邦明さん(http://www20.tok2.com/home/itophoto/index.html)と、日本人ではないけれどPete Eckert(http://www.peteeckert.com/index.php)という写真家を見つけた。その光と影の芸術にしばらく見とれた。


5月11日 パート2 @コペンハーゲン

 宿泊するユースホステルはなんとチボリ公園と同じ「H. C. Andersens Boulevard(アンデルセン通り)」にあった。ホステルまでの道で、チボリ公園に入りたそうにたたずむアンデルセン翁の像にも遭遇。公園から楽しげな歓声がストリートにこだましていたので、その気持ち、すごくわかる。
 旅のおともに『絵のない絵本』(アンデルセン/角川文庫)をもってきている。「ひとりの友もむろんのこと、あいさつをかわす知りあいの顔さえなかった」という「わたし」が、ある夕方見なれた顔に会って、たとえようもない喜びを感じる。その「ふるさといらい、だれよりもしたしかった友だち」とは、月だった―――という「書き出しのことば」から始まる物語集だ。
 アンデルセンも眺めた月を見られるかなぁーとユースホステルの窓から空を見上げるものの、白夜の近い北欧の初夏の夜。月を見る前に寝息をたてていた。

5月11日 パート1 @オスロ→コペンハーゲン
 オスロの丘の上のユースホステルを出て6時間。無事、デンマークのコペンハーゲン中央駅に到着。一歩外に出ると、赤茶色の煉瓦の建物がずらりと並ぶ。その美しさに、思わず「うわぁー」と声が出る。
 現存する赤レンガの建物のほとんどは17世紀に「建築王」と呼ばれたクリスチャン4世によって建てられたものだという。コペンハーゲンの建造物は市の条例によって、周囲との調和が義務づけられている。
 そういえば、以前読んだロシア語通訳者・米原万里さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)に、現セルビアの“白い都”ベオグラードは、そのあまりの美しさにオスマントルコ軍が攻撃を躊躇したという記述があった。
後で調べてみると、こんな文章だった。「白い靄に包まれた都市は、折から差し込んできた陽の光を受けてキラキラと輝いていました。その美しさに、歴戦の猛者たちも、しばし息を呑んで見惚れたと伝えられています。あまりの美しさに、トルコの将兵は戦意を喪失し、その日の襲撃は中止になった、と」
 ベオグラードが“白い都”なら、コペンハーゲンは“赤い都”というべきか。その美しさにみとれながら、ユースホステルへの道を急ぐ。

2011年5月11日水曜日


5月10日 パート2 @オスロ
『エルリック・オスロ』の事務所から歩いて5分ほどのところにある、ニルスの販売場所に連れて行ってもらう。1時間弱の間に老若男女さまざまな顔ぶれのお客さんがやってくる。皆一様に、ニルスと軽快に言葉を交わす。ニルスも毎回律儀に、「日本から来たんだよ」と傍らの私を紹介してくれる。
お客さんが通りの角に消えた後、「あの人常連さんなの?」とニルスに聞くと、「ううん」と首を横に振る。「でも、この雑誌のおかげで、皆僕にフレンドリーに近づいてきてくれて、互いにおしゃべりを楽しむことができるんだ。通りで物乞いをしていた時は、『あっち行ってくれよ』って目で見られたのにね。大きい変化だよね」
そういえば、とクリスチャンの言葉を思い出す。一度薬物に手を出すと社会復帰はかなり難しい。だから、まず社会に復帰してもらって、自尊心を取り戻してもらってから、薬物依存の問題と向き合えばいい。
ニルスの輝いた顔を見ると、その方法は間違っていないように思える。まず「受け入れる」。そうしたら、こんなに人って変われるのだ。
何度目撃しても、それはやっぱり1冊の雑誌がもたらす奇跡のように思えてしまう。「ドラッグ依存症者」ではなく、1人のニルスへ。彼の自信に満ちた穏やかな笑顔は、まるで魔法の杖を一振りしたマジックのよう。でも考えてみると、いろんなレッテルを排して、一人の人間にもどりたいのは、実はニルスだけじゃなくて、私たちみんなじゃないかな、と思う。みんな、魔法の杖の一振りを必要としているんじゃないだろうか。みんな、まず受け入れてほしいんじゃないだろうか。
オスロの青い空の下で、そんなことを思った。

5月10日 パート1 @オスロ
 朝10時半ごろ、オスロのストリート・マガジン『エルリック・オスロ』の事務所を訪れると、すでに販売者さんたちが談笑していたので、仲間に加えてもらうことにした。
 ニルスは創刊以来、ヤンは半年前から雑誌の販売をしている。『ビッグイシュー日本版』を渡すと、「へぇー縦に書かれている」「雑誌は逆のページから繰っていくんだね」と興味津々だ。
 常にヘッドホンで音楽を聴いているヤンに、「どんな音楽が好きなの?」と聞くと、「ピンクフロイドとかニール・ヤングかな。ニール・ヤングは歌詞がすばらしいよね」との答え。「ニール・ヤング、『ビッグイシュー英国版』のいつかの表紙になっていたよ」と伝えると、かなり興奮した様子だった。「そういや、ボブ・ディランも09年のクリスマスに世界のストリート・マガジンに向けてメッセージをくれたもんね~」(http://www.streetnewsservice.org/news/2009/november-2009/feed-210/bob-dylan-discusses-holiday-music,-christmas-and-feeding-the-hungry.aspx)「普通にそういうことできるの、かっこいいよね~」と話が盛り上がる。
すごく紳士で素敵な2人だけれど、ドラッグ依存症に長年悩まされているという。『エルリック・オスロ』には150人の販売者がいるが、そのうちのほとんどがドラッグ依存症を抱えているという。こんなにピースフルなオスロで・・・とにわかに信じられない気持ちを正直に先日クリスチャンに打ち明けたら、「よくそういわれるんだけど、オスロだってこの世の一部なんだよ」との答え。「たとえば親に虐待されたり受け入れてもらえなかったり、もしくは誰かにレイプされたりしたら、ヘロインが必要になる。心の痛みをすっかり消し去ってくれるからね。そして一度手を出してしまうと、もうやめることはほぼ不可能に等しいんだ」
実際、話の途中でドラッグ依存症の話になると、「ぼくもどうやったらドラッグをやめられるのか、わからないんだよ」とニルス。その青みがかったグレーの瞳に困惑の色がにじんだ。

5月9日 パート2 @オスロ
オスロを東西に分けるアーケシュエルヴァ(アーケル川)。「川の東側は、多様な民族の人たちが住む地域だから、ぜひ見てもらいたいんだ」とクリスチャン。
 実際、橋を東側に渡ると、聞こえてくるストリートミュージシャンの笛の音も、東洋の調べを奏でる。道行く人の肌の色もさまざまになり、ブルカを着た女性たちも多い。八百屋で売られている野菜の種類も俄然増える。
 現在16歳のクリスチャンの息子は、3-4年前この地域の学校に通っていた時、クラスメートは世界各国からきており、自分が唯一のノルウェー人だったという。
「60年代はパキスタンからの移民の人たちが多かったかな。最近は、ソマリアからの人たちが多いね」とクリスチャン。さっき通りでクリスチャンがあいさつを交わした男性も、ケニアのナイロビ出身で、オスロでDJをしているという。
 西と東でまったく違う顔を見せるオスロ。この街の懐の深さを感じる。もっと通りを歩けば、もっといろんな面を見せてくれるに違いない。

5月9日 パート1 @オスロ
 今日もオスロの空は青い。
 ユースホステルからトラムに乗って15分。「Skippergata 14」というアドレスを頼りに、ノルウェーのストリート・マガジン『エルリック・オスロ』の事務所にたどり着いた。
 一歩足を踏み入れると、クリスチャンと目が合った。「ハーイ!」と再会を喜び合う。クリスチャンとは、偶然ロシア・サンクトペテルブルグのストリート・マガジン『プット・ドモイ』を訪れた時期が一緒で、「オスロに来るなら、案内するよ」と言ってくれていた。1週間の間に、2都市で出会えるなんて、これも縁だなーと思う。
『エルリック・オスロ』は、英国で本家本元の「ビッグイシュー」に出会ったグラフィック・デザイナーのヴィベッカが「オスロでも、英国の『ビッグイシュー』のような雑誌をたちあげたい!」と思ったのが、そもそもの始まり。04年8月、共通の友人をもつクリスチャン、スティヤンが、ヴィベッカとともにオスロ版「ビッグイシュー」の構想を練り始めた。
スタイリッシュで、質のいい写真を多用する―――アイディアはあるものの、先立つものがない。「そこで、政府に手紙を書いたんだよ」とクリスチャン。「それこそたーーくさんね」と笑う。でも、政府からは、なしのつぶてだった。
 それなら、と、クリスチャンはビデオ・カメラ片手に路上に出た。通りで物乞いをしている人たちにインタビュー。「これは人生の最悪のかたちさ。誰も僕には注意を払わない。もはや僕は人間とは言えないかもしれないね」といった彼らの台詞を収録したその映像は、ついに政府を動かし、得た助成金で、05年6月、クリスチャンたちはストリート・マガジン『エルリック・オスロ』の創刊号を刷ったのだった。
「その助成金で1万部を刷ったんだけど、なんと10日くらいで売り切れてしまったんだ。結局創刊号は、3カ月で9万部売れたんだよ」
 あれから、6年。このストリート・マガジンはすっかり街に溶け込み、この国の王室とも良好な関係を築いている。最近、『エルリック・オスロ』の販売者ヨハンソンをフィーチャーした『Vendor 329(販売者329)』という映画が封切られた。この映画に関してインタビューを受けたヨハンソンは「僕は王室の大ファン。この国の王様、女王様にもこの映画を見てほしいな」と語ったところ、その記事を見た2人が、実際に映画を見に訪れてくれたという。
「まるでおとぎ話みたいだね」と言うと、「いやーほんとに」とクリスチャン。
 今年9月23日には、ホームレス状態の人たちが撮影したショートフィルム映画祭をオスロで開催するため奔走しているクリスチャン。「できれば毎年恒例の映画祭にしたいね」と語る。『エルリック・オスロ』から始まった人の輪は、まだまだ広がりそうだ。

2011年5月9日月曜日



5月8日 @オスロ
 1日がかりでオスロに到着した昨日は、疲れてバタンキュー状態だった。オスロの宿は小高い丘の上のユースホステル。一面に広がった芝生にはタンポポがあちらこちらに咲き、本当にピースフルな空間だ。
 朝目が覚めて、まず、4人部屋の同居人とあいさつ。3人はパリで共に学ぶ留学生で、1人はボスニアヘルツェゴビナから、あと2人はブラジル出身だという。少し言葉を交わし、また滞在中ゆっくり話せるのを楽しみに、少し外出。
 昼過ぎに部屋に戻ってみると、もう3人はチェックアウトしていた。今日までの滞在だったんだ。本当に一期一会の出会いに、しばらく呆然としてしまった。
 日曜日で、あまりお店も開いていないので、宿の前の芝生で寝転んで読書。こんな平和な空間で『本当の戦争の話をしよう』(ティム・オブライエン/文春文庫)を読み終える。すばらしかった。ベトナム戦争に従軍した作家が戦争の現場を語るのだけれど、人生のある1日を描いていると、実はそこは戦場だったというように、実にさりげなく戦争が話に織り込まれているように感じる。翻訳された村上春樹さんの「人は誰もが自分の中に自分なりの戦争を抱えている」という一文に深くうなずく。一方で、だからこそ物語の持つ力を信じていることがティム・オブライエンの文章から伝わってくる。
 芝生でしばらく寝転んで風の音を聴きながら雲の動きを眺めていると、大地と一体化したような錯覚にとらわれた。こんな感覚、いつ以来だろう? 膝を蟻が這っていた。遠くで鳥が鳴いていた。
5月7日 @サンクトペテルブルグ→オスロ
 サンクトペテルブルグ最終日。荷物をトランクに詰めていると、マヤ&サーシャ家の黒猫ティーシャがトランクに入って出ようとしない。「ダメだよ、ティーシャは連れていけないんだ。ごめんね」と言うと、「残念だニャー」とばかりに鳴く。最後まで、憎めない。
 昨日は、マヤの誕生日だった。偶然にも、ともにお祝いすることができて、本当によかった。アーカディと2人で贈った花をとても喜んでくれた。
 玄関先でサーシャとハグ。マヤが電車の乗り場まで見送ってくれたのだけれど、電車に乗り遅れそうで、マヤとはハグができなかった。残念だったな・・・と口にする私に、アーカディは「またロシアに来るいい理由ができたね」とにかっと笑った。



5月6日 パート2 @サンクトペテルブルグ

 先日訪れた「ナイトシェルター」の『プット・ドモイ』誌の仕入れ先に行くと、今日は“路上の詩人”が仕入れに来ていた。彼の名はミハエル。アーカディから話を聞いて、ずっと会いたいと思っていた。早速ミハエルが、自作の詩を朗読してくれるという。
 Open up the borders!
Mix up the people!
We are men! We are birds!
We are Mother Nature’s children!
As though we are sitting in tanks, we don’t see one another,
Trapped now in the confines of threat and fear.
境界を開け! 人々を混在させよ! 
 われらは人であり、鳥である。
 母なる自然の子どもでもある。
 今はただ、お互い目も合わせず、戦車に座っている。
 今はただ、おそれという檻の中に閉じ込められている。

 ミハエルの魂の叫び。すばらしかった。しばらくの静寂の後、「Brilliant!(すばらしい!)」とアーカディがつぶやいた。「同感」と心でささやく。
 12歳から詩を作り出したというミハエル。次は小説を書くのが夢だという。「次会うときには、できた小説を読ませてね」と約束する。
 少しの間皆でお茶をしていると、扉を開けて、長い黒髪の女性が入ってきた。「レナ!」とアーカディは歓待ムード。なんと、彼女がこの仕入れ場所の壁の絵を描いたアーティスト・販売者だという。思わず、「この壁の絵を見て、レナに会う前から『こんな絵を描く人だから、あったかい人なんだろうな』と思っていたんだよ」と告げると、恥ずかしそうに目を伏せた。
 しばらくして、皆の会話に入ることもせず、じっと座っていたレナがおもむろに席を立った。「販売場所に向かうのかな?」と思っていると、戻ってきた彼女の手に、自作があった。なんと、プレゼントしてくれるのだという。心が、動いた。彼女の手にあるそのチューリップの絵は、本当に色彩が柔らかで、すばらしかった。唯一知っているロシア語「スパスィーバ(ありがとう)」を何度繰り返しただろう。レナのサイン入りの絵。ロシアで、生涯の宝物を得た。