2011年7月30日土曜日


7月21日 パート1 @グラスゴー、スコットランド
今回のINSP年次総会で唯一販売者として参加したのが、カナダの『ヴィクトリア・ストリート・ニュース』のローズだ。彼女は、このストリート・ペーパーに、たびたび寄稿もしている。
先住民でもある彼女は、いつも平穏な顔をしている。「その秘訣は何?」と聞くと、こんな答えが返ってきた。「自分が耐えられないような困難は、私の前に現れないと思っているからかしら。それに、どんないやな経験にも、そこから学ぶことが何かしらあるものだしね」
 それにしても、と彼女は続ける。「今の時代は、何でも早く結果を求めたがるでしょ。でもね、もしあなたが今日何かを受け取ったのなら、それは長い時間をかけて旅をして、あなたの前にたどり着いたの。もしあなたが今日何か行動を起こしたなら、それは長い時間をかけて結果が表れてくるでしょう」
 聞けば聞くほど染み入るローズの言葉。川のほとりで、ストリート哲学談義は際限なく続くのだった。


7月20日  @グラスゴー、スコットランド
フィリピン・マニラの『Jeepney』誌のリアに、『ビッグイシュー韓国版』のコニとサン。スロバキアの『ノタベネ』誌のズザ、ベオグラードの『LiceUlice』誌のニコレッタなど、見知った顔を見つけると、思わず駆け寄ってハグをする。
INSP(ストリートペーパーの国際ネットワーク)の年次総会はたくさんのハグと近況報告で幕を開けた。今年は29カ国から80人の参加だという。3日間、ワークショップや食事時の雑談などで知恵を分かち合い、結びつきを確認する。
ワークショップの合間に、『ビッグイシュー・ザンビア版』のサンバに近況を聞く。18~35歳までの40人の販売者のほとんどが、失業状態にあり、収入源を断たれている。教育費・治療費などを払えず、社会的なサービスのほとんどを受けられず、据え置かれているような状態だ。
そんな中明るいニュースの一つが「販売者の1人がカメラマンになったのよ」とのこと。「ロジャーズという20歳の販売者なんだけど、一度の教育をうけたことがなかったの。でも、雑誌の写真に興味を示して、『この写真を撮った人に会いたい』っていつも言っていたのよ」
彼の夢は実現し、ついには、撮られる側から撮る側へと、仕事を得たのだった。
09年のノルウェー・ベルゲンでのINSP年次総会では、ポルトガルのエンリケから「失業率が5割を超えるようなアフリカ諸国でストリート・マガジンという仕組みが有効なのか?」という根本的な質問も飛び出した。確かに、経営難の末、立ち上げからしばらくして姿を消すペーパーも多い。
そのことをサンバに問うと、こんな答えが返ってきた。「確かに、ザンビアは国民の68パーセントが貧困にあえいでいるわ。だから読者には、この国を訪れる外国人の人たちも多い。でも、いろんな機会へのアクセスを断たれている人たちがいることを知ってもらうのに、ストリート・マガジンというのは有効だと思うの。私の夢は、この雑誌を通して、もっともっと大きな声をあげていくことよ」

7月18日→19日 @ミラノ、イタリア→グラスゴー、スコットランド
 午後6時過ぎ、ホテルを出発し、INSP(ストリートペーパーの国際ネットワーク)の年次総会に向かうため、スコットランドのグラスゴーへ向かう。
 真夜中に到着したロンドンのヒースロー空港で、今日は1泊する予定。落とされた照明に少々心細い気持ちになる。
そこで、取り出したるは、ミラノで再会した友人Hさんが日本から持ってきてくれたおかきとキャラメル。慣れ親しんだ味を口にすると、じんわりと平常心が戻ってくる。ベンチに腰を掛けると、空港1泊組の“仲間”が結構いるらしく、妙な連帯感が生まれる。
朝7時40分発の便でロンドンからグラスゴーへ。空港を出ると、さわやかな風がお出迎えしてくれた。

7月18日 パート1 @ミラノ、イタリア
ミラノのストリート・マガジン『Terre di Mezzo』の事務所を再訪。創設者の1人、ミリアムに会うことができた。
94年、ミリアムたち4人が、「ビッグイシューのような雑誌をミラノでも!」とお金を出し合い、誕生した『Terre di Mezzo』。当初から販売者の大半がセネガルからの移民が占め、今でも60人いる販売者のうちの90パーセント近くを占める。とかく政治的な問題になりがちな、移民の存在。だが、彼らが路上で『Terre di Mezzo』を販売することで、そこに対話が生まれ、いつしか移民とイタリア系住民としてではなく、1人の人間として向き合えるようになる。
言葉も文化も違う彼らとともに仕事をしていくことは、大変さも付きまとうと思うのだが、ミリアムは「まずは、お互いに尊敬の念を持つところからコミュニケーションは始まるのではないでしょうか」と、この17年間の活動で得た箴言を口にする。
『Terre di Mezzo』にとって、路上とは販売場所でもあり、他者と出会い、関係を結び、分かち合い、参加する場所であるという。
03年には、誌面を飛び出して、現実の社会でもそういう場所をつくりたいと、「Fa’la cosa guista!」というフェアを開催。人間を人間として使う持続可能な社会や経済の枠組みをともに作っていくために、有機野菜やフェアトレード商品、エシカルな金融、オルタナティブなエネルギーなどをあつかう業者と市民が出会う場をプロデュースした。
毎年の恒例行事となった「Fa’la cosa guista!」。09年3月に開催した際には5万人の人々が訪れ、知恵を分かち合ったという。
「17年間『Terre di Mezzo』をやってきて、燃え尽きたと感じることはありませんでしたか?」という問いに、きょとんとした表情を見せたミリアム。他者と出会い、関係を結び、分かち合い、参加する場所をつくる『Terre di Mezzo』の活動は、今後も多くの人たちを巻き込んで、大きな輪となっていくことだろう。
7月17日 パート2 @ミラノ、イタリア
 何とはなしにホテルのテレビをつけると、W杯決勝で、なでしこジャパンがアメリカ相手に善戦している。キーパー海堀あゆみ選手の好セーブに、友人のHさんともども何度もキャーキャー叫んでしまう。
 同点のままホイッスルが鳴り、ついに恐れていたPK戦に。「見てられへんわ・・・」と思わずまぶたを閉じる小心者の私たち。
 そして、熊谷紗希選手のシュートで、なでしこジャパンの優勝が決まる。信じられない・・・。一瞬の間をおいて、Hさんと固く抱き合う。
 日本にいる友人Nさんが、なでしこジャパンの選手の中には、震災後ほとんど練習ができず、W杯に出場することすら辞退しようか考えていた人もいたとメールで知らせてくれた。でも彼女たちは戦いきった。美しくかっこいい彼女たちの姿に、しばらくテレビの画面にくぎ付けになった。

7月17日 パート1 @ミラノ、イタリア
 ミラノ2日目の晩、夜空を見上げると、そこには完璧な満月が。見入りながら、思わず、同僚Kさんに勧められて自分もファンになったブルーノ・ムナーリの『闇の夜に』を思い出した。
今日は、「最後の晩餐」のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に繰り出し、「予約がないため、拝観できない」と知って、がっくし肩を落としていた。その帰り道、ふと訪れた本屋さんで、ブルーノ・ムナーリの絵本『きりのなかのサーカス』を見つけた。東京・神田にあるイタリア書店の店員さんにも、「『きりのなかのサーカス』は、版元でも品切れですので、見つけるのは難しいでしょうね」と言われていた1冊。ページを繰ると、すーーっと日常が遠のき、自分も観客の1人としてサーカスに紛れ込んだ気分になる。ミラノでサーカスを満喫した。

2011年7月27日水曜日


7月16日  @ボローニャ、イタリア
井上ひさしさんの『ボローニャ紀行』を読むにつけ、私の中でこの街への思い入れは増すばかりでした。ヨーロッパ最古の大学ボローニャ大学に柱廊の街。第2次大戦中はレジスタンス都市であり、文化による街の再生を集中的に行っており、その手法は1970年代に「ボローニャ方式」として世界に知られた。また、イタリアで初めてストリート・マガジンが誕生した地でもある―――。
そんなわけで、友人Hさんと2人、ボローニャへの日帰り旅行を敢行することに。土曜日のこの日電車は満席で、2時間立ちっぱなしの電車の旅となったが、車窓と1杯のカプチーノが旅の疲れを感じさせない。
やって来たボローニャ、まずはお目当てのチネテカへ繰り出す。たばこ工場の跡地に建てられた、映画の修復と保存のための複合施設だ。訪れると今晩マッジョーレ広場で映画上映会があるということだったが、電車の時間もあり、参加は無理…残念! だが、「古い建造物を壊さず、内部を現在の必要に合わせて使う」ボローニャ方式の最たる例にじかに触れることができ、感激もひとしおだった。
4人の映画好きから始まったチネテカは、今ではチャップリンの映画など、世界のフィルム修復を一手に引き受け、たいへんなお金をこの街にもたらしている。このチネテカの歴史を紐解いて、井上ひさしさんは『ボローニャ紀行』の中で、こう語っている。
「あることに熱中する人たちがいたら、彼らに資金を提供して、好きなようにやらせてみる。(中略)そういう市民の冒険に、お金を持つ者が参加する。そして初めは小さかったパイをみんなで大きく引きのばして、みんなが楽しめて、みんなが食べていけるような事業にしてしまうのです。そこに都市の創造性があるというわけです」


7月15日 パート2 @ミラノ、イタリア
 日本から合流した友人Hさんと、ドゥオモに繰り出す。白亜の建造物をくまなく心に刻んだ後は、脇道にそれて、前コルシア・デイ・セルヴィ書店、現サン・カルロ書店を探す。
作家・須賀敦子さんが携わったコルシア・デイ・セルヴィ書店は、サン・カルロ教会の物置を改造して、この世に生まれ落ちた。この場所自体が、1930年代の「聖と俗との垣根を取り払おうとする『あたらしい神学』の流れを受け継いでおり、「司祭も信徒もなく、ひとつになって、有機的な共同体としての生き方を追求しよう」という運動でもあった。
現在コルシア書店は、サン・カルロ書店と名前を変えているが、この土地を訪ねてみることにした。
 サン・カルロ教会にたどり着くと、向かって右側にひっそりとたたずむ本屋さんを発見。扉を開けると、大通りの喧騒がうそのような静寂に包まれる。書棚には、ダヴィデ・マリア・トゥロルド神父、エマニュエル・ムニエ、シモーヌ・ヴェイユなどの著作が整然と並べられている。お客は私たちだけかと思っていると、立て続けに3度ベルが鳴った。
 須賀敦子さんやペッピーノたちが過ごした時間の息遣いの一つでも残っている気がして、大きく息を吸って、店を後にする。扉を開けると、またミラノの喧騒が私たちを待っていた。

7月15日 パート1 @ミラノ、イタリア
 ミラノ中央駅から地下鉄3号線を南下して、ミラノのストリート・マガジン『Terre di Mezzo』の事務所へと急ぐ。うまくアポイントが取れなかったのでダメもとだったのだけれど、事務所前でうろうろしていると、ちょうどお昼ご飯を買いに行く途中の編集部員アンドレアに遭遇。
「日本から来たのだけれど・・・」と告げると、「あぁー、メールをくれていた人だよね。ストリート・マガジンの事務所を旅してまわっているという・・・」とすぐに話が通じた。
 早速事務所に入らせてもらうと、建物の3階部分を借り切り、編集部門、販売部門、イベント部門とそれぞれのスタッフがせわしげに働いていた。
 アンドレアによると、『Terre di Mezzo』は、94年に創刊。ロンドンの『ビッグイシュー』を知った4人のジャーナリストやソーシャルワーカーなどが、ミラノでも同様のコンセプトで、と立ち上げた。現在、80人ほどいる販売者の99パーセントがセネガルからの移民だという。
 97年までは年間20万部を売り上げる雑誌だった『Terre di Mezzo』だったが、数々のフリー・マガジンの台頭などもあって、2006年には年間3万部にまでセールスが落ち込んだ。だが、08年にフォーマットやデザインを一新し再起を図ったこのストリート・マガジンは、今年無事17周年を祝うことができそうだという。

7月14日  @ボルツァーノ、イタリア→ミラノ、イタリア
 ハイジ生活も最終日がやって来た。M家の皆様に見送られて1人電車に乗ると、寂しさが込み上げてきた。3カ月近く旅を続けていても、やっぱりお別れには慣れない。
 ヴェローナでの乗り継ぎを経て、やって来たのはミラノ。ここで日本から友人Hさんが、旅に合流することになっている。
 夜11時。1人ホテルの部屋で待っていると、扉をノックする音が。扉の向こうに見知った顔を見た瞬間、思わず抱きついてしまった。
「これ、おみやげ」と手渡されたのは、数々の日本食、友人たちの寄せ書きと、宮本輝著の『異国の窓から』。
 早速日本食で胃袋を満たし、寄せ書きを食い入るように眺めて心を満たし、『異国の窓から』を紐解く。小説『ドナウの旅人』執筆のための取材旅行日記である本書では、ドナウ川源流から河口までの旅が、現地での会話や息遣いを含めて克明に記されている。旅に出られたのが1982年の10月というから、当時、東欧諸国はまだ共産圏にあった。
 ハンガリーのブダペストや旧ユーゴのベオグラードなど、自分も歩いた街並みが出てくると懐かしさが込み上げたり、約30年の時の流れを感じたり・・・。旅先での貴重な活字なので読み進めるのがもったいないと思いつつも、なかなか本を置いて眠りにつくことができないのだった。
7月13日  @ボルツァーノ、イタリア
気づくと、がっしり心をわしづかみにされていた。
1週間ほどお世話になっている、イタリア・ボルツァーノに住む友人Mが貸してくれた大和和紀さんの漫画『はいからさんが通る』を、寝る前に、特に期待もせずに読み始めた。―――時は大正。編集者の道を歩み始める「はいからさん」こと花村紅緒と、日露戦線に参加したため運命の歯車が狂う伊集院少尉との純愛ドラマかな、と思って読み始めると、関東大震災ですべてが無に帰した東京の街で、手を取り合って生き延びる人々の物語だった。最後のページを繰るのを待つまでもなく、目からは大粒の涙がいくつもこぼれていた。
 3・11の、あの大震災から4カ月。35年前に生まれた「はいからさん」から、励ましという大きな贈り物をもらった。
7月12日  @ボルツァーノ、イタリア
 M家の庭に寝転がって本を読んでいると、長女のMちゃん(6歳)が、「髪を編みこみにして~」と駆け寄ってきた。弟のLくん(4歳)も後ろに続く。
芝生の上で髪を結い終わると、ごろんと横になって3人、雲の流れを見るともなしに眺める。
「あ、あそこ、犬がいるよ」のMちゃんの声に、雲連想ゲームが始まる。何の道具もなくてもこうやって遊びを見つける子どもたちに、日々教えられている。

2011年7月26日火曜日

7月11日  @ボルツァーノ、イタリア
旅の直前に読んですっかりはまってしまったイタリア人作家のアントニオ・タブッキ。須賀敦子さん訳の『インド夜想曲』の幻想と現実が入り乱れたようなその世界観に、しばらく現実に戻ってこられないほどの引力を感じていた。
今日はロープウェーで山を下り、ボルツァーノの街へ繰り出し、まずは本屋へ足をはこぶ。「アントニオ・タブッキ置いてますか?」と店員さんに聞いて差し出されたのが、『Sostiene Pereira』『Tristano muore』の2冊。20パーセント引きだったのと表紙に引かれて、タイトルの意味も分からず購入。後で調べてみると、『Sostiene Pereira』は、白水Uブックスから『供述によるとペレイラは…』という邦題で出ていた。こちらも須賀敦子さんが訳を担当されている。
今はまだ解けない暗号のように、まったく意味のなさないイタリア語が並ぶ2冊の本。何年後かに、行間までも味わい尽くすことができたらいいな。

7月10日  @ボルツァーノ、イタリア
そこに山があるから、人は山に登る。ボルツァーノの街からロープウェーに20分ほど乗った山頂にある友人Mの家。今日はそこからさらにロープウェーを乗り継ぎ、一家総出で山登りへ出かける。
 容赦なく照りつけるイタリアの太陽にめげそうになると、M家の子どもたちが「ちょうちょ」や「チューリップ」の歌を歌って、励ましてくれる。「さいた~、さいた~、チューリップの花が~」なんて、久々に歌ったなぁ。
 目的地に到着すると、待っていたのが花のシロップの飲み物。渇いたのどに染み入る清涼感。夏を満喫した1日、ようやく太陽が沈みかけようとしていた。

7月9日  @ボルツァーノ、イタリア
 昨日からお世話になっているイタリアはボルツァーノ。住民は、ドイツ語とイタリア語を操る。理由はその歴史を紐解くとわかる。
県域は、中世には神聖ローマ帝国のティロル伯領の一部であったが、1363年~1918年まではハプスブルク家により、ドイツ語圏として支配された。
第一次世界大戦後、1919年9月10日調印のサン=ジェルマン条約で正式にイタリア領となり、1922年にムッソリーニ政権が誕生するとイタリア化政策が推進され、ドイツ語の使用は禁止されたという。
1939年、ムッソリーニは、ドイツ語系住民に、ドイツへの移住か、イタリアでイタリア人との同化政策を受け容れるかの選択をさせることをヒトラーから提案され、同意。住民は、故郷を捨てるか、母語を捨てるかという究極の選択を迫られた。
21世紀のボルツァーノでは、M家の子どもたちが日本語、ドイツ語、イタリア語、英語のチャンポンで会話をしていた。

7月8日  @リュブリャナ、スロベニア→ボルツァーノ、イタリア
 長旅の疲れが出てきたため、予定を変更。イタリア北部の町ボルツァーノに住む友人Mに「旅の途中に寄らせてもらってもいい?」とメールを出すと、「ゆっくりしていき」と快諾してくれたため、1週間ほどお世話になることに。スロベニアのリュブリャナからは、バスと電車を乗り継いで、約10時間の旅となる。
 やっとこさ日ののぼり始めた午前6時前、気球のお見送りを受けながら、リュブリャナを後にする。
 2時間ほどのバスの旅を経て、イタリア・トリエステの街に到着。イタリア在住の長かったエッセイスト須賀敦子さんの『トリエステの坂道』によると、先史時代から中部ヨーロッパと地中海沿岸の諸地方を結ぶ交通の要所で、19-20世紀には商港として栄えた土地だ。中世以来オーストリア領だったトリエステは、1919年にイタリア領となった。
 このトリエステでバスから電車に乗り換え、ヴェローナへ。車窓にはアドリア海がどこまでも広がる。ロミオとジュリエットの街、ヴェローナに到着すると、ここで電車を乗り換えて今度は一転、北を目指す。山の緑が深くなってきた頃、終点のボルツァーノへ電車が到着した。
 ロープウェーに20分ほど乗って山を登ると、無事M家に到着。そこはまるで、ハイジの世界。1週間、ハイジ生活させていただきます。

2011年7月16日土曜日


7月7日 @リュブリャナ、スロベニア
 『Kralji Ulice』で火曜日と木曜日に行われている販売者さん対象のアートワークショップ。火曜日にひょいと覗くと、「木曜日に、折鶴の折り方を教えて!」と頼まれました。
 というわけで、総勢9人が集まって、色とりどりの折り紙を手に取る。「まずは三角に紙を折ってくださ~い」。順調な滑り出し!
「ここはどう折るの?」「えー、もうわかんなくなちゃったよ」「ありゃりゃ、これじゃ翼が広がらないよ」とすったもんだがありながらも、折りあがってみると、なかなかのできばえ。皆満足そうに、自分の作品をほれぼれと見つめている。
 そういえば、今日は七夕。折りあがった折鶴に、思い思いに祈りを込めた。

2011年7月15日金曜日


7月6日 パート2 @リュブリャナ、スロベニア
「路上の王様」の1人、アレシュに話を聞く。ドラッグ、武器など商売になるならなんでも調達するディーラーをしていたと語るアレシュ。そんな彼も今では『Kralji Ulice』の販売者となり、2010年12月号の表紙に登場している。裏表紙にアレシュとともにお見目えするのは、9年間付き合っている彼女だ。脇には、アレシュからのメッセージがスロベニア語で書かれている。訳してもらうと「僕はアートと自然が好きだ。人には、満タンな人と空っぽの人がいるばかり。キャピタリズムと金融システムが人々を破壊しているけれど、僕は互いに助け合っていきたいよ」とのこと。強面の見かけによらず、なんともピュアなアレシュなのだ。
 そんな彼に、1カ月後には男の子が生まれるという。いつもポケットに入れて持ち歩いている超音波撮影された写真を見せてくれた。「ほらここが頭でこれが心臓だよ、わかるだろ」と顔をくしゃくしゃにして写真を見せてくれるアレシュの横顔は、もうすっかりパパ。
「俺ももう10月には37歳になるんだ、しっかりしなくちゃな」と語った彼。「それにお父さんにもなるんだからね」と言うと、うれしそうに大きくうなずいた。

7月6日  パート1 @リュブリャナ、スロベニア
「リュブリャナの状況について教えてほしい」
 そんな漠然としたメールだったにもかかわらず、在リュブリャナ日本大使館の方が、「一度お越しください」と優しい返信を寄こしてくださった。
 というわけで、早速やって来ました日本大使館。1時間弱のレクチャーを受ける。
「リュブリャナは1991年に10日間戦争を経て旧ユーゴから独立。今年やっと大人に、つまり20歳になったわけです」。なるほど。
「14世紀にはハプスブルク家の支配下に入り、行政言語はドイツ語、日常はスロベニア語だったため、自分たちの文化が二流と思われているという鬱積した感情を抱えていたかもしれません。そういう歴史的背景も、『自分たちの国を持ちたい』という考えを持つにいたった理由としてあるのかもしれません」
 そんな話をお聞きしていると、あっという間に約束の1時間が来てしまった。
 そういえば、『Kralji Ulice』のソーシャルワーカー、ボヤンはボスニア・ヘルツェゴビナから内戦中リュブリャナに両親とともに亡命したと語っていた。今でも、月に1回は誰も住んでいないボスニアの家に帰るのだと。
美しい街並みにしか見えないこのリュブリャナにも、幾重にも国によって線が引かれ、それによって多くの人々がいまだに苦悩や涙を抱えながら生きていることに思いをはせた。

7月5日  @リュブリャナ、スロベニア
 スロベニアの首都リュブリャナで販売されているストリート・マガジン『Kralji Ulice』は、04年の凍えるような寒い12月の夜に、大学生の一群が「路上留学」したことに端を発する。その頃街に目立ち始めたホームレスの人たちと何かできないだろうか、と考えた彼らが、24時間を路上で過ごしてみようと考え実行に移したのだった。
驚いたことに、彼らは路上の歓待を受け、どうやったら暖かく寝られるか場所や方法を習った。そして彼らの絆は一夜の関係にとどまらず、その約半年後の05年5月には、リュブリャナ発のストリート・マガジンが発行されていた。
現在このストリートマガジンの代表を務めるマヤは、「『Kralji Ulice』って『路上の王様』っていう意味なんですよ」と教えてくれた。「だから表紙はいつも、販売者さんが登場します。裏表紙には、その販売者さんがゆかりのある人たち―――パートナーやボランティア、スタッフ―――とともに登場するんです」
事務所の壁にずらりと並べられたバックナンバー。イケメンも顔負けの何とも味わい深い表情を浮かべた歴代「路上の王様」がこちらに微笑みかけてきた。


7月4日  @ベオグラード、セルビア→リュブリャナ、スロベニア
 ベオグラードを発ち、スロベニアのリュブリャナに到着するころには、日が沈みかけていた。宿泊予定のユースホステルの真裏が中世から建つ古城、リュブリャナ城になっているため、早速、小高い丘を登ってみた。えっちらおっちら1時間弱の登り道をゆっくりゆっくり上っていくと、不意に視界が開け、リュブリャナの町並みが眼下に広がった。絶景!
 ふと前方を見ると、人だかりができている。ん、有名人でもいるのかな?! 野次馬根性で近づいてみると・・・なんと・・・
 赤茶色の煉瓦に反射しながら落ちていく夕日を、皆で眺めているのだった。犬の散歩の途中のお姉さんも、ランニング途中のおじさんも、サイクリング途中の大学生の群れも、一言も言葉を発さずに、ただただ夕日を眺めている。
 そんな彼らの一員に加わりながら、いっぺんでリュブリャナという町が大好きなってしまったのだ。

7月3日 パート2 @ベオグラード、セルビア
 廃墟での環境イベントには、『LiceUlice』の販売者のジェイとエミールが出張販売に来ていた。ともにロマ(ジプシー)の家庭に生まれた彼ら。モンテネグロで生を受けたジェイは、1年生の時にベオグラードに家族とともに移り住んだが、以降学校には行っていない。そのため、「この雑誌販売を通して友達ができたのが一番うれしいよ」と語る。
 一方のエミールは、「創刊号に載っていた(エクストリーム・スポーツの)パルクールの記事がおもしろかったな」と雑誌内容もしっかり把握している様子。
 ロマの子どもたちのためのドロップイン・センターでボランティアをする大学生のミナ・ルキツは、「彼らと知りあって、ロマの人々に対する偏見がなくなりましたね」と語る。「ドロップイン・センターに初めて来たときには、自分の名前を書くこともできなかった子どもたちが、1つずつ言葉を覚えていってくれると、私までその日1日ハッピーな気分なんです」
 横で聞いていたジェイとエミールがそわそわし出した。「雑誌販売に行ってもいい?」。もちろん! 仕事熱心な彼らは、廃墟で思い思いに語り合っている人の輪に「『LiceUlice』いかがですか~」と呼び声高く駆けて行った。

2011年7月11日月曜日



7月3日 パート1 @ベオグラード、セルビア
 ユーゴ時代の「INEX FILM」という映画製作会社の建物が、今は廃墟となってベオグラードに残っている。この廃墟で環境イベントがあるというので、ストリート・マガジン『LiceUlice』のスタッフ、ニコレッタに連れて行ってもらう。
 到着すると、すでにたくさんの若者たちが飲み物片手に語らっている。
 このイベントの主催者ラドミール・ラゾビチェは語る。「廃墟をカルチャー・シーンに変える文化的スクウォッターが西欧には伝統としてありますが、ベオグラードにはまだ存在しませんでした。ですが、スロベニアでも、旧ユーゴ時代の軍用地で今は使われなくなっている場所を文化スペースに転用した例があると聞いて、ここでも何か楽しいことができないだろうか、と思ったのです。打ち捨てられた場所で、何か新しいムーブメントが起こるなんて、楽しいじゃないですか」
 ニコレッタなど、趣旨に賛同した20-30代の若者たちが集い、今回初めてイベントスペースとしてデビューしたこの廃墟。ラドミールの話を聞き終えてちらりと中を覗くと、環境団体「エコローグ」スタッフのマルコが、セルビアでゴミが不当投棄されている場所をマッピングしているところだった。ビール片手に、みな熱心に聞き入っていた。


7月2日 パート2 @ベオグラード、セルビア
ベオグラードの壁には美女が潜んでいるので、ご注意を。

7月2日 パート1 @ベオグラード、セルビア
“白い都”を意味するベオグラード。以前読んだ、ロシア語通訳者だった米原万里さんの『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)の中に、オスマン・トルコ軍がこの街のあまりの美しさに攻撃を躊躇したという記述がある。
「白い靄に包まれた都市は、折から差し込んできた陽の光を受けてキラキラと輝いていました。その美しさに、歴戦の猛者たちも、しばし息を呑んで見惚れたと伝えられています。あまりの美しさに、トルコの将兵は戦意を喪失し、その日の襲撃は中止になった、と」
 続けて米原さんは、同書で、99年のNATO軍によるベオグラード空爆に触れている。空爆された建物の1つ、連邦国防省は、その無残な姿を今も私たちにさらけ出す。
先日、話を聞いた際、「『どうしてこんなことが起こったのか?』という問いに答えられる人は1人もいないでしょう。この問いに答えるには、長い時間が必要です」と現地のストリート・マガジン『LiceUlice』の編集長、サキは言った。
 言葉にならない様々な感情を抱えながら、闇のような底なしの暗さをさらけ出す爆撃跡を、ただただ見つめた。

7月1日 パート2 @ベオグラード、セルビア
『LiceUlice』の代表ネヴァンに、「『LiceUlice』では、コンテンツの70パーセントを国際、特に旧ユーゴからの記事を掲載していきたいと考えているそうですね」と水を向けると、「そうしたいと思っています」と答えが返ってきた。
「ベオグラードに住む人たちは、数十年ごとに体制が変わるということを経験してきました。オスマン・トルコに侵略されたかと思うと、続いてセルビア公国に、第1次世界大戦ではセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に、第2次世界大戦後は社会主義の連邦国家になりました」
「祖父の世代の人の中には、ずっとベオグラードに住んできたにもかかわらず、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1918~29)、ユーゴスラビア王国(1929~45)、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(1945~92)、セルビア共和国(2006年~)と4つの国に住んだことになる人もいるのです」
自分たちの国は、日本のように国として「連続性」を経験したことがない、と語るネヴァン。91年からは内戦も経験し、今の20歳前後の若者は、「安定」というものを経験したことがないともいう。
だからこそ、ネヴァンにとって、若い世代の人たちがこのストリート・マガジンを買ってくれるのが何よりの救いだ。「クロアチアについて何も知らずに、ただただ嫌悪感を募らせてしまう若者も多い。でも、石を落としたら水面に波紋が広がっていくように、この雑誌のメッセージも広がっていくことを信じています」

2011年7月9日土曜日


7月1日 パート1 @ベオグラード、セルビア
ベオグラードのストリート・マガジン『LiceUlice』の名前には、言葉遊びが込められている。セルビア語でLiceは「顔」、Uliceは「ストリート」の意味。この雑誌名を「Lice U Lice」と読むと「Face To Face(顔を突き合わせる)」の意味になるし、「Lice Ulice」と読むと「Face of the Street(路上の顔)」の意味になる。
以前劇作家をしていたこともある編集長のサキと話していると、軽妙な会話劇の一員になったような気分になる。
例えばこんな具合。
“Buying ‘LiceUlice’ helps many people, reading‘LiceUlice’ helps yourself.”
(『LiceUlice』を買うと多くの人を助けることができるけれど、『LiceUlice』を読むと、あなた自身を助けることができます)
“Wow, That’s the good one! I would love to steal it!”
(おお、それ語呂がいいですね~。私も使おうっと!)
“Help yourself!”
(どうぞご自由に!)
『LiceUlice』のかっこいいグラフィック・デザインのことに話がおよぶと、サキはこう語る。「『LiceUlice』はトロイの木馬のようなものなんです。かっこいいデザインで、まずは僕たちの発信したいメッセージに近づいてきてもらうことが大切なんです」
 将来的には、雑誌の30パーセントが国内の記事、70パーセントは外国の、特に旧ユーゴの国々からの記事を掲載したいと語るサキ。旧ユーゴの国々では、クロアチアの『Ulične svjetiljke』誌、スロベニアの『Kralji Ulice』誌、マケドニアの『Ulica』誌などのストリート・マガジンが各国の路上で販売されている。
「今、キャピタリズムやグローバリズムが私たちに醜い一面を見せていますが、『反キャピタリズム』『反グローバリズム』という『アンチ~』でない選択肢があるはずです。多様性を持ちながらも共に生きていく、そういう道があるはずなんです。そのためには、『あなたは一人じゃない』と『Humanity(人間性)』と『Solidarity(連帯)』を軸に、メッセージを発信していきたいですね」

2011年7月6日水曜日


6月30日 パート2 @ベオグラード、セルビア
 10分の道のりで、何人に道を聞いただろう? 宿からストリート・マガジン『LiceUlice』の事務所までは、直線距離で約600メートル。なのになぜこんなに苦戦しているかというと、キリル文字のせいなのです。
手持ちの地図の表記はアルファベット。でも、路上に表記されている道の名前はキリル文字。よって、自分が正しい道にいるかどうかも、わからないという体たらく・・・。
 でも、ベオグラードの人たちは優しい。「私もそっちに行くからついていらっしゃい」というおばちゃん。「まっすぐ行って、2つ目の角で左よ」と2回繰り返すおねえちゃん。道を聞いていると、わらわらと周りのおじさんも、「右や!」「左や!」と騒ぎ出す。ありがたい。
 そんなわけで無事事務所に到着すると、編集部員のニコレッタが出迎えてくれた。『LiceUlice』は昨年7月に創刊したばかり。セルビアの有名な俳優がスロバキアで『ノタベネ』誌を見て、「セルビアでもこんな雑誌が作りたい!」と強い思いを抱いたのが、きっかけだった。
 彼が、CSR(企業の社会的責任)の啓発などに力を入れている「SMartKolekvit」に話を持ちこみ、約1年前に記念すべき第1号が創刊された。現在販売者の大半が、ロマ(ジプシー)の若者たちだという。
 ニコレッタ自身は、それまでコピーライターとして働いてきたが、「あれは、今まで経験してきた中で、一番自分に合っていない仕事だったわ」と笑う。「『LiceUlice』では、社会の変化に貢献できているという実感があるから、とてもやりがいがあるわ」

6月30日 パート1 @ティミショアラ、ルーマニア→ベオグラード、セルビア
 5時49分発の電車ということもあって、ティミショアラ発の電車は人もまばら。まだ薄暗いコンパートメントの車内で一人たたずんでいると、なんとなく心細い気分にとらわれる。
 出発時刻を少し過ぎてから、電車は重い腰をあげるようにゆっくりゆっくりと動き出した。その振動に眠気を誘われる。
 うとうと重たい瞼をようやく押し上げて薄目を開くと、鮮やかな黄色が視界に飛び込んできた。なんと、一面のひまわり畑。なんだかソフィア・ローレンが出てきそう・・・眠気は一気に吹っ飛び、夢中でシャッターを切った。

2011年7月3日日曜日

6月29日 パート2 @オラデア→ティミショアラ、ルーマニア
オラデア最後の日。ルーマニアで医学を学ぶ友人Mの先輩M子さんと、ルーマニア第4の都市ティミショアラまで同じ電車で行けることが判明。M子さんはそこから飛行機で英国へ、私はそこから電車を乗り換えてベオグラードへ向かう。
道中、M子さんと話していると、なんと彼女、外大でペルシャ語を修めた後、04年に日本大使館の職員としてアフガンに赴任していたという。だが、結局情勢が悪化の一途をたどり、国外退去を余儀なくされた。
 でも、彼女とアフガンとの縁はここで途切れたわけではない。アフガンの現状を目の当たりにしてしまった彼女は、医師としてこの地に戻ってこようと思いを新たにし、そして今このルーマニアの地で医学を学んでもう5年になる。同世代の女性が、これほどの思いをもって異国で頑張っていることに、なんだか心から励まされてしまった。
3時間の電車の旅終えると、ティミショアラに到着。1989年12月16日、この地で起きた蜂起がルーマニア革命の始まりとなり、1週間後のチャウシェスク政権の崩壊へとつながった場所でもある。暗がりの中、目を凝らして駅名を見つめた。


6月29日 パート1 @オラデア、ルーマニア
昨日ご近所さんが飼っている牛の乳搾りをさせてもらったのです。「黒」という意味の「ニャグラ」と名づけられたその牛は、夜の訪問客を温かく迎え入れてくれました。見よう見まねで乳を搾れた時には、ニャグラに何度も「ありがとう」ということしかできませんでした。
このお乳を私は今まで飲んでいたんだな。スーパーで手に取るキンキンに冷えた牛乳パックしか今まで知りませんでしたので、そのお乳のもつ生き物の体温のようなものに、何だか新鮮な驚きを覚えてしまいました。
そのニャグラに、昨晩遅く、双子の子牛が生まれたそうなのです。予定は2-3週間後だったので、あわてて、友人Mと旦那さんと一緒にお祝いに行きました。まだ目が開かない2頭の脇で、ニャグラが荒い息を立てながら横になっていました。おつかれさま、そしておめでとう、ニャグラ。

6月28日 パート2 @オラデア、ルーマニア
 ルーマニアで阿部公房と出会うとは、思ってもみませんでした。ルーマニア・オラデアに住むMの義理のお父さんは、大変な読書家で、泊まらせていただいている部屋にもぎっしり本の詰まった本棚がある。
 夕飯を食べていると、このお父さんがふらりとやって来られ、「僕は日本の作家も好きなんだよ。阿部公房はすばらしいよね」と語り、本棚からルーマニア語に訳された『砂の女』を持ってきてくださる。思わず「わお!」と叫んでしまった。その後も川端康成や俳句など、日本文学の巨匠たちの名前が出てくる、出てくる。
 自身も詩人であるというお父さん。「チャウシェスクの時代は暗喩を使って表現していたけれど、最近はダイレクトな表現も増えましたね」と語る。ルーマニアのおすすめの詩人を聞くと、ずらずらとリストができるほど名前を挙げてくださったのだが、「ミハイ・エミネスクの『金星ルチャーファル』だったら日本語に翻訳されているんじゃないかな」とのこと。日本に帰ってからの楽しみができました。

6月28日 パート1 @オラデア、ルーマニア
 鍾乳洞が 12,000以上あるというルーマニア。家から車で1時間半ほど行ったところにも鍾乳洞があるよ、と聞いてはいたのです。でも、正直はじめはあまり心にひっかかりませんでした。
 ですが、今日、実際にそのBear’s Cave(熊の洞窟)に行った驚きといったら、どう説明すればいいでしょう。重力に抗ってタケノコのようににょきにょきと地上から生えてくるもの、蜘蛛の糸のように繊細に天井から地上に向かって手を伸ばすもの―――。
こうして見学している間にも、石の先端のしずくが今にもしたたり落ちそう。この水の動きが幾重にも積み重なってこの造形ができたかと思うと、思わずそのしずくにじっと見入ってしまいました。水と時間が作った自然の芸術は、予想以上の圧倒感をもって迫ってきたのでした。

6月27日  パート2 @オラデア、ルーマニア
地図上では魚の形に見えるルーマニア。そのちょうど「目」の位置にあるオラデアは、ハンガリーとの国境に位置し、西ヨーロッパへの玄関口となっている。
午後からは、市内観光に繰り出すことに。11世紀、ハンガリー王ラースロー1世の時代に建造され、その後、モンゴル帝国の攻撃に備えて増改築が繰り返された五角形の「オラデア要塞」に、18世紀後半に建てられ、直後にこの地の職人が月の満ち欠けを表示する天文時計を取りつけたという「月の教会」・・・と、数時間で何世紀分もの時間を行き来する。
市街見物から帰ってくると、友人Mの義理のお母さんが、ルーマニア郷土料理「サルマーレ(ロールキャベツ)」をつくって待ってくれていた。やっぱり裏庭で採れたばかりの野菜たちが醸し出すハーモニーは、まったくもってまろやかな風味で、思わずいくつも口に頬張ってしまう。
 なんだかルーマニアに来てから食べてばかりいる。この豊かな大地から、心と体にもりもり栄養をもらっている。



6月27日  パート1 @オラデア、ルーマニア
 一夜明けたルーマニア生活2日目の朝は、なぜか裏庭での卓球大会に参加することに。犬のウルサがお昼寝する中、白球を追う大人たち。
 渇いたのどを潤わせてくれるのは、庭の果物たちだ。もぎたてのラズベリーを口に入れていると隣の家の姉弟が話しかけてきた。いっしょにラズベリーを頬張り、口いっぱいの甘酸っぱい香りに目を細めあった。
6月26日 @ブダペスト、ハンガリー→オラデア、ルーマニア
 今回の旅の目的のうちの1つがポズナンのストリート・マガジン『Gazeta Uliczna』のスタッフ、ダグマラの結婚式に出席することだとしたら、それと双璧を成すのが、ルーマニア・オラデアの医学部に通う友人Mを訪ねることだった。
 Mは元々母との友人で、何度か家に遊びに来てくれるうちに仲良くなった。4年前に家に寄ってくれた時には、ルーマニアでの医学生生活を顔を輝かせて話してくれた彼女。07年1月にEU入りしたこの国で医師免許を取ると、EU内で通用することもこの時初めて知った。
 それから3年後には同じ大学に通っていたルーマニア人男性と結婚したという知らせが舞い込んだ。それで、何だか俄然ルーマニアという国への興味がわいてしまったのだ。
 M家に到着すると、だんなさん、2人の弟さん、ご両親、遊びに来ていたいとこくん、猫のチチさん家族、2カ月歳の犬のウルサと大家族がウェルカム。庭にはラズベリー、桃、さくらんぼ、ぶどう、ナッツ、ナス、トマト、キャベツと大地の恵みが鈴なりで、2階建てのお家は、なんと男性陣で建てたのだという。
裏庭で収穫したばかりのえごまの葉でくるんだBBQをいただきながら、ルーマニアという国への興味は増すばかりなのでした。

2011年7月1日金曜日


6月25日 パート2 @ハンガリー、ブダペスト
手元のガイドブックによると、今ハンガリーでは廃墟カフェが流行っているらしいのです。そんなわけで、現地のストリート・マガジン『Flaszter』のスタッフのチャバに、その1つ「Szimpla Kert」に連れて行ってもらうことにしました。
ブダペスト市内の6区、7区では、取り壊される予定だった建物を中心に、8~9年前にカフェ文化が花開いたといいます。
「ここだよ」と指示された場所は、秘密基地のような雰囲気をぷんぷんにおわせている不思議空間。一つとして同じもののない椅子や、天井からぶら下げられた自転車、無造作に置かれた車体など整合性のないインテリアが心地いい。熟成味を帯びて感じよく朽ちている壁の赤レンガと妙にマッチしています。
 この空間、アムステルダムで出会ったハンガリー出身のバンド「kinga and the very good band」の音楽とすごくあうだろうなぁー、とふと思いました。ジプシー音楽を奏でる彼ら、哀愁を帯びたキンガの歌声と弦楽との絡みが何とも琴線に触れます。
 昼間なので、人はまばらでしたが、週末の夜ともなると、地元の人から観光客まであふれんばかりに人が集まってくるといいます。
 劣化しないのが当たり前のデジタル時代だからこそ、朽ちていくものがいとおしいのかもしれないなぁ・・・・・・そんなことを考えた帰る道でした。

6月25日 パート1 @ハンガリー、ブダペスト
 ブダペストのストリート・マガジン『Flaszter』のスタッフ、チャバは、ソーシャル・ワーカーとしてこの雑誌とかかわってきた。
「本当は社会学者になりたかったんだ」と笑うが、毎日顔を合わせているだろう販売者さんと、まるで久方ぶりにあったかのように固い握手を交わす彼を見ていると、チャバにはこの仕事がとても合っていると思う。
 ドナウの真珠ともうたわれるこの美しい街で、近頃、公園で寝ると罰金を科されるという条例ができたという。「今じゃ、ブダペストで野宿すると、ドナウ川沿いの高級ホテル並みのお金を取られるということだよ」とチャバは皮肉る。ハンガリー第2の都市デブレツェンでは、ストリート・ミュージシャンをはじめ露店も禁じられたという。
 王宮をはじめ歴史的建造物の立ち並ぶ丘陵地帯「ブダ」と商業・政治の中心である平坦地「ペスト」の中央を悠々と流れるドナウ川。川沿いを走る2番のトラムに揺られながら、複雑な思いで大河の水面を見つめた。