2011年6月24日金曜日


6月22日 パート1 @ブラティスラバ、スロバキア
『ノタベネ』誌の販売者さん、ヴラダに話を聞く。孤児院で育ち、「いつも両親の愛に飢えていた」と語る彼。その後、住み込みで働いていた工場でも解雇され、路上での生活を余儀なくされた。寝ているときに襲撃されたこともある彼にとって、路上での生活で心休まることはなかった。
 10年前に『ノタベネ』に出会ったことが人生で一番うれしかったこと、と語るヴラダ。「この仕事で大変だったことは?」と聞いても、「『ノタベネ』で大変だったことは一度もないよ。それ以前の人生がもっともっと過酷だったからね」と語る。
 現在は知り合いのガーデン・コテージに住まわせてもらっている彼にとって、『ノタベネ』で築いた人間関係は宝物のようだ。売り場付近の銀行のガードマンとも仲良くなり、雑誌販売中にからまれそうになったら、助けてくれるという。
 話を聞いている最中も傍らにいるソーシャル・ワーカーのスタッフと目配せして笑いあったりして、すっかりリラックスしている。彼にとっては『ノタベネ』が心落ち着くホームなのだろう。
 そんな彼に、「夢はなんですか?」と聞いてみた。「僕には夢はない。ただただ毎日を一生懸命に、一歩一歩生きていくだけさ」

6月21日 @ブラティスラバ、スロバキア
 スロバキアの『ノタベネ』誌は、2001年創刊。当時、INSP(ストリートペーパーの国際ネットワーク)が中・東欧でストリート・マガジンを創刊できるような団体を探しており、ブラティスラバで白羽の矢が立ったのが、当時ソーシャルワークを学ぶ学生だったサンドラたち3人だった。
 あれから10年。「もう10年たったとはねぇー。この仕事はあまりにも私の人生と密接にかかわりすぎているわ。いつも仕事に没頭しすぎて、自分の人生のこと考えるのをつい忘れてしまうんだけど」と笑う。「でも、人生で大切なことはすべてこの仕事から学んだ気がするわ」と語る。
 その例として、4年前この地にできたホームレス状態の人のためのシェルターのことをサンドラは語りだした。話は、6年前の冬にさかのぼる。当時、20人ものホームレス状態の人たちが路上で死んだことがこの国で大きな社会問題となっていた。というのも、その頃はシェルター入場前にアルコールテストがあり、これに引っかかった人は、シェルターで寝泊まりすることを拒否されたのだ。行き場をなくした彼らが、寒い冬の路上で凍死することもめずらしくなかった。
「当時、同僚のニーナとこの問題に取り組んでいて、酒気を帯びていたとしても、アルコールテストなしに、誰でもシェルターに泊まらせるべきだというキャンペーンを張っていたの。でも、冷たい反応を示す人もいて、私の意欲もくじかれそうになった時に、ニーナがこう言ったの。『21世紀に路上で人が死ぬっていうことを許していいと思っているの?』」
ニーナの信念は人を動かし、結果、酒気を帯びていても寝泊まりできるシェルターが新たに設けられた。「このことを通して、自分のやっていることを信じていくことの大切さを目の当たりにしたわね」とサンドラ。「これは今では、私の人生の指針でもあるのよ。『自分のやっていることを信じてあげなければならない』ってね」

6月20日  @ブラティスラバ、スロバキア
 3月11日。津波の一報を聞きつけたスロバキア『ノタベネ』誌のサンドラから、「大丈夫?」とメールが来たのは、地震発生から3時間ほどのことだったと思う。その後も、「『ノタベネ』誌の4月号の売り上げを『ビッグイシュー日本版』に寄付することに決めたから」とメールが来たりと、何かと行動で愛情を示してくれるこのスロバキアのストリート・マガジンに、直接「ありがとう」と言いたかった。
 事務所を訪れると、編集部員のダグマ、ファンドレイザーのズザ、ソーシャル・ワーカーのイヴァンや販売者さんたちが歓迎してくれた。
 まずは販売者さんたちのお礼をと思い話しかけると、「毎日ニュースを見て、日本の人たちがあの大変な状況の中笑顔を忘れずにいることに、励まされているよ。僕も見習って、売り場ではいつも笑顔を心掛けているんだ」と語る。「この状況は一生続くわけじゃない。状況は絶対少しずつ良くなっていくはずさ。僕の人生だってそうだったんだから」


6月20日  @ウィーン、オーストリア→ブラティスラバ、スロバキア


 オーストリアからスロバキアへは、内陸国の移動なので電車かバスでと思っていたが、ザルツブルクで出会ったモニカに「ドナウ川を通って、船で行けるわよ」と教えてもらった。1時間45分の乗船中、ずっとデッキで風に吹かれていた。無事スロバキアの首都、ブラティスラバに到着。
 今回宿泊する「ホテル・キエフ」は70年代の共産党時代に建てられたもので、なんともレトロな雰囲気。レセプションには、西ドイツのベンツの向こうを張って東ドイツで生産されていた「トラバント」が展示されていた。
 3日間、お世話になります!


6月19日  @ウィーン、オーストリア
 宿の裏が深い森になっている。同室の雅代さんと森の散策に出かけることに。芸術家の彼女は、こうして森を歩いて、作品のインスピレーションを得ることも多いという。
「こうやって自然の中にいると、本来の自分を取り戻すよね」と雅代さん。いやいやほんとに、“自然体”とはよく言ったもの。
 木に触れて、風に吹かれて、雲を眺めて、鳥の音を聴いて、土を踏みしめて。あー生きててよかったと思わせてくれる豊かな時間が、森には流れていた。

6月18日 @プラハ、チェコ→ウィーン、オーストリア
 バスで4時間の旅を経て、チェコからウィーンへやって来た。バスから降ろされたとたん、いつもの通りツアリスト・インフォメーションの事務所を探すものの、どこにも見当たらない。よって市内地図も手に入らず、「ここはどこ?」状態。
 思わず道行く人に「ここのユースホステルに行きたいんだけれど・・・」と駆け寄ると、「16区ね。ここから遠いわよ~」とのこと。丁寧に乗るべき地下鉄のラインを書いて渡してくれた。「グッドラック!」と声をかけられてから1時間。何とか無事丘の上のユースホステルにたどり着いた。
 ルームメイトは日本人の雅代さん。なんとこれから5ユーロ(約600円)の立見席でウィーン・フィルの定期公演を見に行くという。「もしかしたら、まだ当日券あるかもよ」ということで、ダメもとで一緒に市内へと降りていく。
 ウィーン・フィルの事務所へ行くと、なんとまだ立ち見の券が残っているとのこと。
指揮者はインド人のズービン・メータ、ピアニストはダニエル・バレンボイム。演目は、まずはストランヴィンスキーの「3楽章の交響曲」、ベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番ハ短調 op.37」。ダニエル・バレンボイムのピアノソロが終わると、ブラボーの嵐。山手線並みに込み合う立見席にも熱気が渦巻いた。
幕間、隣人とおしゃべり。香港から来たというパーカッション奏者の彼は、「次のR.シュトラウス『ドン・キホーテ op.35』はパーカッションが華やかだから楽しみだよ」とのこと。また独奏チェロがドン・キホーテを、独奏ヴィオラがサンチョ・パンサの役を演じているのだという。
弦楽器でのビツィカートでは、立見席に静かな笑いが起こったのだけれど、後で調べてみると、ドンキホーテとサンチョ・パンサが水車に巻き込まれて転覆し、ずぶぬれになってしまった際の、滴る水を表現しているのだという。なるほど!


6月17日 パート2 @プラハ、チェコ
チェコのストリート・マガジン『Novy Prostor』の編集長トマス宅で、夕ご飯をごちそうになる。面々はトマスの彼女、先日一緒にデモ行進したオンドレイ、『Novy Prostor』のためにマサチューセッツでノーム・チョムスキーへのインタビューを敢行したライター夫妻、そしてこちらのオーケストラに所属しているナツコさんと旦那さん。
座るスペースもないくらいの大所帯になったが、肩寄せ合ってパスタを頬張る。話題はやっぱり先日のデモ。「史上初めてメトロが止まったね。政府も予想してなかったんじゃないかな」とオンドレイ。その後も、ひっきりなしに、この国の政治家や政治の話が、食卓に上った。
 傍らで彼らの白熱議論を聞きながら、なんだかんだ言って、チェコの人たちとご飯を食べたり、飲んだりしていると、なぜか必ず政治の話になるなぁと感じていた。ビールのつまみは「揚げチーズ」と「政治」と言ってもいいくらい。そして、政府の動きに敏感で、「違う」と思ったら行動を起こす。
今朝、1968年のプラハの春、1989年のビロード革命の舞台となったヴァーツラフ広場へと足を運んだ。国民博物館、ヴァーツラフ像までのなだらかな上り坂を上りきると、ワルシャワ条約機構廃止20周年記念の展示がされていた。
 激動の20年を生きてきた彼ら。どれだけ体制が変わろうと、声を上げていくこの国の人々の姿勢は変わらない。